日曜日
5月11日
1. 預言された光
a. 聖霊はどのようにイザヤを通してイエスに言及されましたか(イザヤ書 49:6)。
b. シメオンはイエスが献納のために宮に連れて来られたときに、このお方をだれとして認めましたか。またこのことがわたしたちに何を考えさせるべきですか(ルカによる福音書 2:32)。
「年老いたシメオンは、キリストがそのとき教えておられた宮の中で、イエスのことを『異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光』であると言った(ルカ2:32)。シメオンは、このことばによって、どんなイスラエル人もよく知っている一つの預言をイエスに適用していた。聖霊は、預言者イザヤを通してこう宣言された、『あなたがわがしもべとなっ て、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう』(イザヤ書49:6)。この預言はメシヤについて言われたものと一般に理解されていたので、イエスが『わたしは世の光である』と言われたとき、人々は、イエスがご自分のことを約束のメシヤであると主張しておられるのだとみとめることができた。」(各時代の希望中巻253)
「このベツレヘムの驚くべき物語は、なんという教訓を教えていることであろう。それはなんとわれわれの不信、高慢、うぬぼれを 譴責することであろう。それは、われわれもまた、恐るべき無関心に陥って、時のしるしを見分けることができず、そのために神のおとずれの日を知らずに過ごすことがないように、注意するようにとわれわれに警告を与えている。」(各時代の大争闘上巻404)
月曜日
5月12日
2. 拒まれた光
a. キリストの使命に対して、ユダヤ人指導者たちは、どのように反応しましたか(ヨハネによる福音書 1:11; 8:13)。
「パリサイ人や役人たちには、この主張は無礼なもぐりに思えた。彼らは、自分たちと同じような人間がこんな主張をするのをゆるしておくことができなかった。彼らは、イエスのことばを無視した様子で、『あなたは、いったい、どういうかたですか』と聞きただした(ヨハネ8:25)。彼らは、イエスに自分はキリストであると宣言させたかったのである。イエスの外観とそのわざが民衆の期待とまったくちがっていたので、陰険な敵どもは、イエスが自分はメシヤであると自ら発表されたら、詐欺師として排撃されるであろうと信じたのであった。」(各時代の希望中巻253, 254)
b. イエスは信じないパリサイ人たちに対して、どのような明白な説明を提示なさいましたか。それでなお、彼らはどのように応じましたか(ヨハネによる福音書 8:14–18)。
「〔パリサイ人たちは〕、〔キリストの〕神聖なご品性と使命について無知であった。なぜなら、彼らが自分たちの特権であり義務であったようには、メシヤに関する預言を調べてこなかったからである。彼らは神とも天ともつながりがなかった。そのため、世の救い主の働きを理解していなかった。そして彼らはイエスこそ救い主であられるというもっとも説得力のある証拠を受けていたにもかかわらず、理解するために自分たちの思いを開くことを拒んだのであった。最初に彼らはこのお方に反対して自分たちの心を定め、そしてこのお方の神性の最も強力な証拠を信じることを拒み、その結果、彼らの心はこのお方を信じることも受け入れることもしないと決意するところまで頑なになっていった。」 (預言の霊2巻354, 355)
c. イエスはご自身と不信のパリサイ人の間に存在するどの顕著な対比を述べられましたか(ヨハネによる福音書 8:19–23)。
d. ユダヤ人指導者たちがキリストを拒んだ致命的な結果は、何でしたか(ヨハネによる福音書 8:24; マタイによる福音書 23:38)。
火曜日
5月13日
3. 二種類の聴衆
a. 自分たちがその罪のうちに死ぬこともあり得ると警告された後に、パリサイ人はイエスに何を尋ねましたか。それはなぜですか(ヨハネによる福音書 8:25(上句))。
「彼らは、イエスのことばを無視した様子で、『あなたは、いったい、どういうかたですか」と聞きただした。彼らは、イエスに自分はキリストであると宣言させたかったのである。イエスの外観とそのわざが民衆の期待とまったくちがっていたので、陰険な敵どもは、イエスが自分はメシヤであると自ら発表されたら、詐欺師として排撃されるであろうと信じたのであった。』(各時代の希望中巻253, 254)
b. 救い主は彼らにどのようにお答えになり、それによってこのお方の顕著な御父とのつながりを明らかになさいましたか(ヨハネによる福音書 8:25(下句), 26–29)。
「キリストは神の律法の諸原則への忠誠からそれたことは一度もなかった。このお方はご自分の御父の御心に反するようなことは何も言われなかった。このお方は、御使たちの前で、人の前で、悪霊たちの前で、他の唇から語られたのであれば冒涜となる言葉を語ることがおできになった。『いつも神のみこころにかなうことをしている』(ヨハネ8:29)。日々三年間、このお方の敵は、キリストをつけまわし、このお方のご品性に何らかのしみを見つけようとした。サタンは悪の同盟軍を上げて、このお方を打ち負かそうとした。しかし、彼らは自分たちの有利になるものを、何ひとつこのお方のうちに見出さなかった。悪霊どもでさえ、『あなたは…神の聖者です』(ルカ4:34)と告白せざるを得なかった。」(教会への証8巻208)
c. ご自分の御父とのキリストの日々の歩みを述べなさい。そして、どのようにわたしたちはこの経験を反映すべきですか(ヨハネによる福音書 15:10; エペソ人への手紙 2:4–6)。
「イエスが人性のうちにおられたように、神はキリストに従う者たちになってほしいと思っておられる。このお方の力のうちに、わたしたちは、救い主が生きられた純潔と高尚の人生を送るべきである。」(同上289)
「地上における救い主の生涯は、戦いのさ中にあったが平和な生涯であった。怒った敵がいつもイエスをねらっていたが、彼は『わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない』と言われた(ヨハネ8:29)。人間やサタンの怒りのどんな嵐も、神との完全な交わりの平静さを乱すことはできなかった。」(祝福の山 19)
水曜日
5月14日
4. 反射された光
a. キリストがパリサイ人たちに刺しとおす真理を語られたとき、このお方の言葉は聞いている人々にどのような影響を及ぼしましたか。今日、なぜこのことがわたしたちの励ましとなるのですか(ヨハネによる福音書 8:30)。
「キリストはどのように落ち着いた知的な方法で行動し、ご自分を有罪にしようとする彼らの計画を無効にするかを理解しておられた。主の言葉は鋭い矢のようで、的を射ており、このお方の告発者の心を傷つけた。キリストが民に語られる時はいつでも、聴衆が多くても少なくても、このお方の言葉に聞いている人のある魂には救う効果があった。キリストの唇から語られるメッセージはいつでも失われることがなかった。このお方が語られる一言一言は、それを聞いた人々に新しい責任を課した。世に対する憐れみの最後のメッセージを伝え、まごころから真理を提示し、神に力をより頼んでいる牧師たちは決して自分たちの努力が無駄になると恐れる必要はない。だれも真理の矢が的をめがけて飛び、聞いている人々の魂を刺し通したかを告げることはできない。人の目はだれも真理の矢が飛んでいるのを見ることができなくても、人の耳が傷ついた魂の叫びを聞かなくても、それでも真理は静かに心に向かう道を切り開いたのである。神が魂に語られた。そして最後の清算の日に、神の牧師は、キリスト、すなわち誉れを受けるべき方に誉を帰すために贖いの恵みの記念品をもって立つようになる。神はすべてをご覧になられ、ご自分の御名によって真理を宣言したものを公に報いて下さるのである。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1896年2月6日)
b. 牧師の他に、だれが天からの光を反射させることによって祝福されますか(詩篇 27:1; 147:15; イザヤ書 55:10, 11)。
「牧会に召されていない人々は自分たちのいくつかの能力に従って、主人のために労するよう奨励されるべきである。今何もしていない幾百もの男女は、受け入れられる奉仕をすることができるはずである。真理を自分の友人や隣人の家庭にたずさえていくことによって、彼らは主人のために大きな働きをすることができる。神は人を偏り見る方ではない。このお方は、他のある人たちのように徹底的な教育を受けていなかったとしても、謙遜で献身的なクリスチャンをお用いになる。そのような人は戸別訪問をすることによってこのお方のために奉仕に携わりなさい。炉端に座り、彼らは―もし謙遜で、思慮深く、信心深いならば―いくつかの家族の真の必要に応えるために、按手を受けた一人の牧師よりも、多くのことができる。」 (教会への証7巻21)
木曜日
5月15日
5. くびき 対 自由
a. イエスはご自分を受け入れたユダヤ人たちに、何と言われましたか(ヨハネによる福音書 8:31, 32)。対照的に、不信者たちはどのように、罪からわたしたちを自由にする唯一の条件を認めるのに失敗したのですか(ヨハネによる福音書 8:33–36)。
「〔パリサイ人たち〕は最悪の種類の束縛下にあった―すなわち悪意に支配されていた……
神に献身しようとしない魂はみな、別の権力の支配下にある。彼は彼自身のものではない。彼は自由を口にするかも知れないが、最もあわれむべき奴隷状態にある。彼の心はサタンの支配下にあるので、真理の美しさを見ることがゆるされない。彼は、自分自身の判断の命令に従っているとうぬぼれているが、実は暗黒の君の意思に従っているのである。キリストは、魂を罪の奴隷の束縛から切り離すためにこられた。
あがないの働きに強制はない。外部からの圧力は用いられない。神のみたまの影響下にあって、人はだれに仕えるかを自由に選ぶことができる。魂がキリストに屈服するときに行われる変化の中に、最高の意味の自由がある。罪を追い出すことは、その魂自身の行為である。なるほどわれわれは、サタンの支配からわが身を解放する力はない。だが罪から解放されたいと望み、非常な必要を感じて、われわれ以外の、そしてわれわれ以上の力を求めて叫ぶとき、魂の能力には聖霊の天来の力が吹きこまれ、その能力は神のみこころを成就することにおいて意思の命令に従うのである。
人間の自由が可能であるただ一つの条件は、キリストと一つになることである。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」とあるが、キリストがその真理である(ヨハネ8:32)。罪は、心を弱め、魂の自由を滅ぼすことによってのみ勝利することができる。神に屈服することは、自分自身を回復すること、すなわち人間の真の栄光と威厳とを回復することである。われわれは、神の律法に従うようになったが、それは『自由の律法』で
ある(ヤコブ2:12)。」(各時代の希望中巻255, 256)
金曜日
5月16日
個人的な復習問題
1. イエスについてのシメオンの言葉の意味を説明しなさい。
2. 律法学者やパリサイ人たちのキリストに対する取り扱いを述べなさい。
3. イエスを拒むことによって、国家に何が起こることになりましたか。
4. まごころからの魂は―当時も今も―キリストにどのように応じますか。
5. 福音の真理という光に照らして、「自由」の定義を説明しなさい。