全世界へ出て行って

イエスが興味深いたとえを語られました。「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』。僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい』。」(ルカ14:16-23)。
この晩餐に招かれた最初のグループはだれだったでしょうか。これは何を意味するでしょうか。
「キリストは大宴会のたとえによって、福音が提供する祝福を例示された。ごちそうとはキリストご自身にほかならない。彼は天から下ってきたパンである。彼から救いの川が流れでるのである。主の使者たちは救い主の来臨をユダヤ人にのべ伝えた。彼らは『世の罪を取り除く神の小羊』としてキリストを示した ( ヨハネ1:29)。神はお備えになった宴会において、天が与え得る最大のたまもの―見積もることもできないたまものを彼らに提供された。神の愛は大宴会をもうけ、くちない富を供給された。キリストは、『それを ( 天から下ってきた生きたパンを ) 食べる者はいつまでも生きるであろう』と仰せになった ( ヨハネ6:51 ) 。」1
この引用から、わたしたちは二つの美しい点を理解します。
招待状は最初にユダヤ人に与えられましたが、彼らは神の選民として今日のクリスチャンを表しています。「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:29)。
神の僕また世界への使者として、わたしたちは命のパン、つまりキリストご自身という無償の賜物を受け取るよう世界に招待状を送る特権が与えられています。「イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである』。」(ヨハネ6:35)。
ユダヤ国家は自分たちの霊的な状態のゆえに招待を拒みました。「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない」と考えたからです(ヨハネ黙示録3:17)。そこで、招待は、二番目の階級の人々へ与えられました。そこで主人は僕たちにルカ14:21にあるように命じます。「いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい」 。これは文字通りの意味というよりは、霊的な意味で語られています。もし今日、神の民を代表する人々が霊的に豊かな人々であるならば、大通りや小道にいる人々は霊的に貧しく、足が不自由で、目が見えない人々であるに違いありません。
「貧しいものや、盲人につかわされたしもべは、主人に報告した。『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい』。ここでキリストはユダヤ教の境界をこえて、世界の大通り、小道に福音の働きがなされることを指摘された。」2
たとえの中で、大通りと垣根(または小道)として言及されている最後の二つのグループについてはどうでしょうか。これらのグループは、霊感によって、世の人々、つまりわたしたちの信仰の外にいる人々として言及されています。
最近、いくつかの教会で行われた伝道者訓練集会で、わたしは信仰を持たない人々への働きかけにおけるわたしたちの努力、あるいはその不足について強調しました。ある授業の冒頭で、生徒たちに周りを見回し、過去5年以内に教会外から迎え入れられた新しい信者が何人いるか確認するように言いました。その大勢のグループの中で、「世」から最近信仰を得たのはわずか1、2人でした。これはわたしたち一人ひとりにとって重要な問いを投げかけます。キリストの僕として、わたしたちは積極的に人々に働きかけ、イエスご自身が命のパンであられるこの大宴会へと招いているでしょうか。
「この働きをどう行えばいいのだろうか?具体的に、一体だれに伝えればいいのだろうか?」と自問するかもしれません。異なる背景を持つ人々、例えば高学歴の人々、裕福な人々、あるいは伝統的なキリスト教の教えとは異なる信仰を持つ人々に伝えることに不安を感じるかもしれません。個人的な選択、罪深い生活スタイル、あるいは文化的視点のために、宗教共同体から距離を感じている人もいるかもしれません。そのような人々が霊的な事柄に興味を持つのか、教会と関わることに前向きなのか、しばしばためらいが生まれます。
多くの人は、そのような人々を教会に連れてくることさえ、おそらく正しくも適切でもないだろうと考えるかもしれません。外への伝道を考えるときに、こうした疑問が起こるかもしれません。こうした疑問を和らげるために、福音の宴に最初に招かれた人々、つまり「大通り」にいる人々について、霊感の書が何と語っているかを熟考することには価値があります。
「宴会への招待ははじめにユダヤ人に与えられた。彼らは人々の間で教師、指導者として立つように召された人々であった…福音の召しが異邦人に送られるときにも、その伝えられる方法は同じである。使命はまず『大通りに』与えられる。つまり世の働きに活発に従事している人々、民の教師や指導者に与えられる。
主の使者はこのことを心に留めておくべきである。群れの牧者たち、神によって立てられた教師たちはその招待に応じなければならない。社会の上層階級に属する者をやさしい愛情と兄弟に対するような心づかいをもって捜し出すべきである。実業家、責任ある高い地位にいる人々、大きな発明の才や、科学的知識をもつ人々、天才とよばれている人びと、現代に対する特殊の真理をまだ知らない福音の教師たち―これらの人々がまず最初に招待を聞くべきである。このような人々をまず招待しなければならない。
金持ちのためになすべき働きがある。…金持ちには神を恐れつつ愛をもって働きかけなければならない。多くの場合、金持ちは自分の富にたより、自分の危険を感じない。彼の心の目は、朽ちない価値をもつものにひきつけられる必要がある....
教育、富、名声をもった高い地位にある人々は、自分の救いの重要さについて語りかけられることはほとんどない。多くのキリスト教の働き人たちは、これらの階級に近づくことをためらっている。しかしそのようなことではいけない。」3
父の親友の一人がこの階級に属していました。悲しいことに、父が亡くなった当時、わたしはまだ「世の者」でした。しかし、信仰を得て、聖書の働き人になった後、父の友人に連絡を取らなければならないと感じました。彼はとても親しみやすい人だったので、よく彼の家を訪ねて夕食を共にしました。友情が深まるにつれ、彼は不可知論者(人間は神の存在を証明することも反証することもできないと唱える人)だったため、福音を伝える方法を主に願い求めました。彼の家を訪ねると、趣味で陶芸をしていた彼は、ろくろと窯を見せてくれた。何度か一緒に陶芸をしないかと誘われたが、わたしは興味がないのでいつも断っていました。その間、彼と会い続ける中で、福音を伝える方法を見つけられるよう祈っていました。ある日、祈っていると、前に進んで一緒に陶芸をしようという彼の申し出を受け入れるべきだという強い印象が与えられました。これが福音を伝えるためのきっかけになるかもしれないと気づいたのです。
その紳士に陶芸を学びたいと伝えると、彼はとても喜んでくれました。初めてそこへ一緒に行った時、わたしたちは素晴らしい経験をしました。信じたかどうかは別として、キリストが陶芸家で、わたしたちが粘土であるという霊的な教えをいくつか分かち合うことができました。その後、わたしはここかしこに福音の種を蒔くことができ、わたしたちの友情は深まりました。キリストが魂を勝ち取る方法について、もっと理解するようになりました。
「人の心を動かすにはキリストの方法だけが真の成功をもたらす。人間と交際しておられた間、救い主はその人たちの利益を計られ、同情を示し、その必要を満たして信頼をお受けになった。そして『わたしについてきなさい』とご命令になった。」4
ここには人間関係を深め、相手の信頼を得ることが含まれています。そして、より親密な友情が育まれるにつれて、福音をより良く伝えることができるようになります。10年経った今でも、この男性と私は親しい友人です。そして、いつか彼が天国に行けると信じながら、真理の種を蒔き続けています。
わたしたちは霊感によって、キリストが特にこの階級の人々に多くの努力を払われたことを教えられています。そしてわたしたちはまた、キリストがいかにして彼らに手を差し伸べられたのかと示されています。「イエスは裕福な教育のあるパリサイ人や、ユダヤの貴族や、ローマの総督にも交際をお求めになった。また、彼らの招待をうけ、宴会にも出席なさりなどして、人々の興味と職業を親しくご存じになると共に彼らに近づいて、不滅の富をお示しになった。」5
わたしたちはまた「小道」や「垣根」にいる人々に手を差し伸べるようにと命じられています。モーセの時代から、聖書は次のように述べています。「他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなければならない。」(申命記14:29)。霊感はわたしたちに次のように教えています。「わたしたちは貧しい階級の人々を無視して、すぐれた才能のある人々だけを考えてはならない。キリストは使者たちに、小道やかきねのあたりに行って、貧しく身分のひくい人々のところへも行くようにお教えになった。大都市の裏町や小道に、いなかの人通りの少ない小道に、教会とのつながりもなく、寂しく、神は自分たちをお忘れになったと感じている家族や孤独な人々―それは母国をはなれた外国人かもしれない―がいる。」6
10代の頃、わたしは寄宿学校の学費を稼ぐために毎日約5時間、戸別訪問をしていました。先生は、盛大な晩餐会のたとえ話に出てくる多くの良い原則を教えてくれました。一つは、近隣のあらゆる階層を訪問すべきだということ、つまり売上が見込めそうな地域だけでなく、すべてをまわることです。ある日は裕福な地域、次の日は中流階級の地域、そしてまた別の日は貧しい地域を訪問します。
ある日、貧困地域で戸別訪問をしていた時、啓発的な経験をしました。玄関に近づくと、この家に住んでいる人々の粗暴な性質をあらわしているかのようなものに気づきました。カリフォルニア州ロサンゼルス近郊で育ったわたしは、その匂いを嗅ぎ分けることができました。そして確かに、それは本当でした。ドアを開けると、リビングルームで男たちが酒を飲み、マリファナを吸っているのが見えました。また、服の色や種類から、おそらくギャングのメンバーだろうと分かりました。戸別訪問を始めるにあたり、まず「興味ない!」と言われてドアをバタンと閉められるだろうと思っていました。
しかし、そうではありませんでした。…わたしは手に持っていた4、5冊の本をすべて説明することができ、その間、その男性は辛抱強く話を聞いてくれました。わたしが話し終えると、彼は「ちょっと待って」と言い、20ドル札を持って戻ってきて、「これも買います」と言い、霊的な本を指さしました。わたしがお釣りを渡そうとしたとき(当時は本は10ドルだったので)、彼は「お釣りはとっておいて、そのままあなたがしていることを続けてください。神の祝福がありますように」と言ったのです。
その家を出発しながら、わたしは自分が学んだ非常に貴重な教訓について深く考えていました。初めてその家に近づいた時、わたしはいくつかの先入観を持っていました。特にドアが開いた後、「なぜこのドアをノックしたのだろう?この人たちは明らかに神と神の言葉に反することをしているし、彼らが興味を持たないようなことを話して、自分の時間も彼らの時間も無駄にするなんて」と考えました。しかし、聖書は魂についてそのような先入観を持つようにとはどこにも教えていません。ただ、失われた者を探し出して救うようにと命じているだけです(ルカ19:10)。わたしたちが文書伝道をするときに重要なこととして教えられてきたこと、きちんとした服装、自分の話すべき文書を徹底的に知っていること、そしてしっかりと相手の目を見ることなど、このことが彼に感銘を与えたのだと思います。もしかしたら彼は「これが自分の生き方であるべきだ」と思ったのかもしれないし、「この若者は正しい道を歩んでいるので、支えよう」と思ったのかもしれません。わたしはまた、この本によって種が蒔かれ、彼自身も正しい道を歩みたいと願ったことと信じています。
「神は、わたしたちが旅人や、世から捨てられた者や、道徳力を失った貧しい人々を顧みるようにと特別な命令を与えられた。宗教には全く無関心に見える多くの者が、心の底では、休みと平安を求めている。彼らは罪の非常な深みに沈んでいるけれども、彼らを救うことができるのである…
さ迷い出て、失望しているあわれな者に、絶望する必要はないと語りなさい。彼らはあやまちにおちいり、正しい品性を築かなかったけれども、神は彼らを回復することを喜び、人びとを救いに入れることを喜ばれる。神はサタンにつかれていた一見全く望みのない者をすくって、恵みの支配をうける者とすることをお喜びになる。神は不従順の者の上に下る怒りから彼らを救うことをお喜びになる。すべての人のためにいやしときよめが備わっていることを彼らに告げなさい。主の食卓には彼らのすわる場所がある。主は喜んで彼らを迎えようとして待っておられるのである。」7 この仕事に取り組むわたしたちにとって、何と美しい励ましでしょう。神は、あなたとわたしを用いてご自身の福音を分かち合い、上記の物語に出てくる男性のような人々をご自身の姿に戻すことを望んでおられ、彼らが神の招きに応じてテーブルに着くのを待っておられるのです。
「生け垣」にいた愛しい魂についてのもう一つの特別な話は、わたしがワシントン州で文書伝道者プログラムを指導していた時のことでした。プログラムに参加していたデイジーという若い姉妹がいました(名前の使用許可を得ています)。彼女は初めて文書伝道を経験し、学ぶことをとても楽しみにしていました。彼女は人々に伝えたいという強い思いを持っていました。また、文書伝道者たちは収入の一部を自分のものにできるため、伝道学校に通うための学費を得られることも楽しみにしていました。
ある日、わたしたち全員が文書伝道に出かけていたとき、デイジーがひどく興奮し、恍惚(こうこつ)とさえしているのを見て驚きました。(普段はどちらかというと静かで落ち着いた女性です。)デイジーがある女性と素晴らしい体験をしたことがわかりました。その女性はちょうど数冊の本を買って、代金として紙幣がぎっしり詰まったランチバッグを彼女に渡したのでした。バッグの中には様々な額面の紙幣が合計約350ドルも入っていた。他の文書伝道者たちは驚き、デイジーにその女性について尋ねました。彼女はお金持ちなのですか?
「いいえ」とデイジーは答えた。「彼女は全く逆で、暮らし向きも良くないのです」。その瞬間、わたしはデイジーを助けるために惜しみなく寄付してくれた女性を訪ね、感謝の意を表し、地元の牧師が彼女とさらに連絡を取れるよう連絡先を尋ねるべきだとの印象を受けました。デイジーがその家の場所を教えてくれたので、わたしは古びた家の向かいに車を停め、玄関まで歩いて行きました。玄関ポーチには、裸足で身なりも乱れた12歳くらいの少女が、デイジーが母親に売ったばかりの本を見ていました。
少女に母親と話をしたいと頼んでいると、ドアが開いていたので、評判も職業も怪しそうな女性がドアのところへ来て、わたしがだれなのか尋ねました。デイジー姉妹への惜しみない寄付に感謝を述べた時、わたしの心の中でどんな考えが浮かんだか、想像できるでしょうか。なぜ―すべての人の中で―この女性が、これほど多額の寄付をデイジーにしたのだろうか?そもそも、彼女はなぜ本や霊的な事柄に興味を持つのだろうか?
わたしの疑問はすぐに答えが与えられました。… 彼女にまだ受け取っていない本がいくつかあるので、もっと届けてもいいかと尋ねました。特に、彼女は十分以上の寄付をしてくださっていたので、なおさらです。また、地元の牧師が祈りや聖書研究などを行えるよう、彼女の連絡先を教えてもらえるかと尋ねました。
彼女は、聖書研究などのためには電話番号を教えないけれど、一つのことのためにはそれを教えると言いました。彼女は、デイジー姉妹の態度、そして神に従い、伝道者学校に通いたいという強い思いにとても感銘を受けたので、シングルマザーとして娘にも全く同じことを願っていると。彼女はわたしに自分の娘を文書伝道プログラムに入れることを許可してほしかったのです。わたしは、娘さんはまだ少し小さいと伝えました。それでも彼女を入れて、休み時間に別の場所へ行く間、わたしたちと一緒に行けるように迎えに行くことを約束しました。
すると女性は私に待つように言い、家に入っていって、お金(別の約350ドル)が詰まった別の紙製のランチバッグを取りにいきました。その晩、わたしは1週間プログラムを離れなければなりませんでしたが、デイジーと残された責任者から、少女を何度か迎えに行き、色々な外出に連れて行くことができ、福音の種が蒔かれたと聞きました。
このことを思い返すと、シモンの家にいたときのマグダラのマリヤの物語を思い出します。この女性はマリヤのように、自分の娘のために神の国の恵みという永遠の富を得る機会のためには、自分の持っているものすべてを喜んで捧げたいと思っていました。巡礼の旅の途中で、垣根のそばでこの女性や前の物語の男性のような人々に出会うとき、わたしたちは自問する必要があります。「わたしは、あるいはわたしたちは、パリサイ人シモンのように、裁きと非難に満ちているだろうか。それとも、キリストのようだろうか。」
「主人は彼のたまものをさげすんだ人々を捨てて、満たされない階級、家も土地ももっていない人々を招待した。彼は貧しく飢えているもの、与えられたたまものを喜んでうけるものを招待した。キリストは『取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる』と言われた ( マタイ2:31 ) 。人々に相手にされず、顔をそむけられるようなみじめな人々ではあっても、しかし彼らは、神の注目と愛をうけられないほど低く、みじめになりさがってはいない。キリストは心配にやつれ、疲れ、しえたげられている人間が、ご自身のもとに来ることを切望される。キリストは他のどこにも見いだすことができない光と、喜びと、平和を彼らに与えたいと望まれる。手のつけようのない罪人こそ、主の深く、熱いあわれみと愛の対象なのである。」8
愛する兄弟姉妹、そして若者の皆様!失われた者を探し出し、救うという呼びかけに応えますか?
福音の招きは、全世界に「あらゆる国民、部族、国語、民族」(ヨハネ黙示録14:6)与えられなければなりません。
警告と憐れみの最後のメッセージは、全地をその栄光で明るくしなければなりません。それは、富裕層、貧困層、身分の高い人、低い人など、あらゆる階層の人々に届かなければなりません。キリストは、「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい』。」と仰せになります(ルカ14:23)。 この召しを果たす最良の方法の一つは、あなたの子供、孫、甥、姪を文書伝道プログラムや宣教学校に送ることです。そこで彼らは大胆さと愛をもって福音を分かち合うよう訓練されることができます。あなたもまた自分の住んでいる地域社会で―彼らが裕福な専門家であれ、苦しんでいる隣人であれ、あるいは信仰から遠く離れた人であれ―関係を構築することによって、親切な態度、実際的な助け、希望の言葉、あるいは単に共感を持って耳を傾けることによって、自分が祝福され、自分の召しを果たすことができます。社会から忘れ去られたり拒絶されたりする人々と、食料、衣服、霊的文献などの資源を分かち合いましょう。また、教養があり影響力のある人々とも交流し、永遠の真理について思慮深い議論を交わしましょう。キリストのように、あらゆる人々と交わることで、わたしたちは彼らの信頼を勝ち取り、聖餐へと招くことができます。
主がわたしたち一人一人を、組織的な努力と個人的な証を通して用いてくださり、大宣教命令(マタイ伝28:19, 20)を遂行し、大晩餐に人々を招きながら世の光としてくださいますように。アーメン!