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Sabbath Bible Lessons

ヨハネによる福音からの教訓(パート1)

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第11課 息日2025年3月15日

イエスとベテスダの中風患者

暗唱聖句:「そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。(ヨハネによる福音書 5:17)

「病人をいやされたキリストの働きは、律法に完全に一致していた。それは安息日をとうとぶことになった。」(各時代の希望上巻253)

推奨文献:   教会への証1巻560–567 

日曜日 3月9日

1. 癒しの水

a. 何の目的で多くの体の不自由な人々がエルサレムへ行きましたか(ヨハネによる福音書 5:2, 3)。

b. ベテスダの池について人々は何を信じていましたか(ヨハネによる福音書 5:4)。

「ある時期になると、この池の水面が動いた。一般の人たちは、これは超自然の力の結果で、池の水が動いてから、まっ先に水にとび込む者は、だれでも、どんな病気を持っていても、いやされると信じていた。何百人という病人たちがこの場所へやってきた。しかし水が動くと、群衆が多いために、人々は、自分より弱い男や女や子供たちを足の下にふみつけて、突進した。池に近づくことができない者が多かった。うまく池にたどりつくことができた者でも、そのふちで死ぬ者が多かった。病人たちを昼の暑さと夜の寒さから守るために、その場所には屋根ができていた。病人の中には夜をこの廊の中で過ごし、むなしい回復の望みをもって、来る日も来る日も池のふちまではって行く人たちがいた。」(各時代の希望上巻242)

c. イエスと池にいる一人の男との交流はどのように始まりましたか(ヨハネによる福音書 5:5–7)。


月曜日 3月10日

2. さまざまな種類の麻痺状態

a. イエスは中風患者にどのような人間的には不可能な任務をお命じになりましたか、またその結果は何でしたか(ヨハネによる福音書 5:8, 9 (上句))。

「イエスは、この病人に、わたしを信じる信仰を働かせなさいとは要求なさらない。主はただ『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』と言われる(ヨハネ5:8)。しかしこの男の信仰はそのことばをしっかりとらえる。どの神経もどの筋肉も新しい生命に躍動し、不具の四肢に健康な動きがあらわれる。何にもたずねないで、彼はキリストのご命令に自分の意思を従わせる。するとすべての筋肉が彼の意思に応ずる。立ちあがってみて、彼は自分が動ける人間になっていることを知る。

「イエスは彼に神の助けについて何の保証もお与えになっていなかった。その男はちょっと考えてみて疑い、一度のいやしの機会を失ったかも知れなかった。だが彼は、キリストのみことばを信じ、みことば通りに行動することによって力を受けた。」(各時代の希望上巻245)

b. キリストから離れた人々は自分がどのような霊的状態にあるのを見出しますか(イザヤ書 1:5, 6; ローマ人への手紙 7:24)。

「罪のために、われわれは神のいのちから切り離された。われらの魂は麻痺している。ちょうどあの不具の男がひとりで歩くことができなかったように、われわれもひとりではきよい生活を送ることができない。自分の無力をみとめている人、また神に一致するような霊的生活をあこがれ求めている人が多い。」(各時代の希望上巻245)

c. このような状態に対する唯一の治療法は何ですか(使徒行伝 9:34)。

「救い主は、ご自分の血であがなわれた者をのぞきこんで、言い表わしようのないやさしさとあわれみとをもって、『なおりたいのか』と言われる。主はあなたに、健康と平安のうちに立ちあがりなさいとお命じになる。いやされたと感じるのを待ってはならない。キリストのみことばを信じなさい。そうすればみことばは実現する。あなたの意思をキリストの側におきなさい。キリストに仕えようと決心なさい。そうすれば、みことばを行なうことによって、あなたは力を受ける。どんなに悪い習慣であろうと、長い間の放縦によって魂と肉体とをしばりつけてきた支配的な情欲から、キリストはわれわれを救うことがおできになり、また救おうと望んでおられる。彼は『自分の罪過と罪とによって死んでいた者』にいのちをお与えになる(エペソ2:1)。キリストは、弱さと不幸と罪の鎖につながれているとりこを解放される。」(同上246)


火曜日 3月11日

3. 人生の新しさの内に歩む

a. キリストはわたしたちが打ち勝つことができるようにどのように助けて下さいますか(エペソ人への手紙 2:1–6)。

「人は生来サタンの暗示に従う傾向があり、偉大な征服者であられるキリストが彼の内に宿っていて下さり、彼の望みを導き、力をお与えにならない限り、これほど恐ろしい敵に首尾よく抵抗することはできない。…サタンは神の民よりも、彼らがキリストの内にいる時に彼らがどのぐらい力強いかを知っている。彼らが謙遜に偉大な征服者に助けを懇願する時、真理を信じる最も弱い者でも、キリストにしっかりと信頼することで、サタンとその全軍勢を首尾よく撃退することができる。」(教会への証1巻341)

「わたしたちはキリストについて学ばなければならない。わたしたちはこのお方が贖って下さった者たちにとってどのようなお方であるかを知らなければならない。わたしたちはこのお方への信仰を通して世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となることができる特権を認識しなければならない。そうすればわたしたちはすべての罪、すべての品性の欠陥から清められる。わたしたちは一つの罪深い性癖でも持ち続けている必要はない。

わたしたちが神の性質にあずかるとき、遺伝や培われてきた誤った傾向は品性から切り離され、善のための生きた力となる。常に神聖な教師について学び、日々そのご性質にあずかり、サタンの誘惑に打ち勝つことにおいて、神と協力するのである。神が働かれ、人が働くのはキリストが神と一つであられるように、人もキリストと一つとなるためである。そうすればわたしたちはキリストと共に天の座に着くことができる。こうして心はイエスにあって平安と確信をもって安らぐことができる。」(レビュー・アンド・ヘラルト1900年4月24日)

b. キリストの力によってもたらされる平安を述べなさい(ローマ人への手紙 8:3–6)。

「子供はみな、父親の生命によって生きる。あなたがたは、神のこどもであって、その聖霊によって生まれたのであれば、神の生命によって生きる。キリストには、『満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿って』いる(コロサイ2:9)。そしてイエスの生命は『わたしたちの死ぬべき肉体に』現わされる(コリントⅡ4:11)。あなたの中にあるこの生命が、イエスに生み出したのと同じ品性を生み出し、イエスに現わしたのと同じわざを現わす。こうしてあなたは主の律法のすべての戒めに調和するようになる。『主のおきては、完全であって魂をいきかえらせ』るからである(詩篇19:7)。愛を通して『律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされる』のである。(ローマ8:4)。」(祝福の山95, 96)


水曜日 3月12日

4. パリサイ人の怒り

a. 中風患者に与えられた祝福を無視して、なぜパリサイ人たちは苛立ったのでしょうか(ヨハネによる福音書 5:9 (下句), 10)。

「〔回復した中風患者〕が神を賛美し、新しく与えられた力をよろこびながら、しっかりした自由な足どりで道を急いでいると、数人のパリサイ人に出会ったので、彼はすぐに自分がいやされたことを彼らに語った。彼は、パリサイ人たちが自分の話を冷淡に聞くのを見て驚いた。

パリサイ人たちはまゆをしかめて彼をとどめ、なぜ安息日に寝床を運んでいるのかと聞いた。彼らは、主の日に荷物を運ぶことは律法にかなわないことだときびしく注意した。男は、よろこびのあまり、安息日であることを忘れていた。それでも彼は、神からのこのような力をもっておられるおかたの命令に従っていることに、心のとがめを感じなかった。彼は『わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました』と大胆に答えた(ヨハネ5:11)。彼らはそんなことをしたのはだれだとたずねたが、男は答えることができなかった。この役人たちは、この奇跡を行うことができるおかたはひとりしかないことをよく知っていた。だが彼らは、イエスを、安息日を犯した者として、非難するためには、それがイエスであったという直接の証拠がほしかった。彼らの判断によれば、イエスは、安息日に病人をいやして、律法を破られたばかりでなく、その男に寝床を運ぶように命ずることによって、安息日の神聖をけがしたというのであった。」(各時代の希望上巻246, 247)

b. ユダヤ人は安息日をどのように考えていましたか(マタイによる福音書 23:4)。

「ユダヤ人は律法を曲解して、これを束縛のきずなとしていた。彼らの無意味な規則は、他国民の語り草になっていた。特に安息日はあらゆる種類の無意味な制限にとりこまれていた。安息日は、彼らにとって、喜びの日でもなければ、主の聖日でもなく、とうとぶべき日でもなかった(イザヤ書58:13参照)。律法学者やパリサイ人たちが安息日の遵守を耐えがたいほどの重荷にしていた。ユダヤ人は、安息日に火を燃やすことも、ろうそくをつけることも許されなかった。その結果、ユダヤ人は、規則に禁じられているために自分にはできない多くの仕事を異邦人にたのんでやってもらった。仕事をすることが罪になるものなら、他人をやとってその仕事をやらせることも、自分がやったのと同じに罪になるということを、彼らは考えてもみなかった。彼らは、救いはユダヤ人にだけ限られたものであって、他のすべての人の状態はすでに絶望的なのだから、それ以上悪くなりようがないと考えていた。しかし神は、誰かが従うことのできないような戒めをお与えになってはいない。神の律法は、不合理な制限や利己的な制限を是認しない。」(同上247, 248)


木曜日 3月13日

5. 安息日とその目的

a. イエスは神の律法に対して、また安息日に対して、どのような関係にありましたか(イザヤ書 42:21)。.

「イエスは、律法を『大いなるものとし、かつ栄光あるものとする』ためにおいでになっていた。彼は律法の尊厳を低くしないで高められるのであった…イエスは、安息日を祝福ではなくてわざわいにしていたやっかいな規則から解放するために、おいでになったのである。」(各時代の希望上巻250)

b. 安息日に何をすべきであり、また何をすべきではありませんか(出エジプト記 20:8–11)。

「イエスは、池のそばの病人たちの中から、最悪の病人を選んで、その者の上にいやしの力を働かせ、そこのなされた偉大なわざを公表するために町の中を寝床を運んで行くようにその男にお命じになった。このことによって、安息日に何をすることが律法にかなっているかということについて質問がおこり、イエスが主の日に関するユダヤ人の束縛を攻撃され、彼らの言い伝え無効であることを言明される道が開かれるのであった。

イエスは、苦しんでいる者を救う行為は、安息日の律法にかなっていると彼らにお述べになった。それは、苦しんでいる人間に奉仕するためにいつも天と地との間をのぼりくだりしている神の天使たちの働きに一致していた…

人間にもまた、この日になすべき働きがある。生活上の必要に備え、病人を世話し、困っている人々の欠乏を満たさなければならない。安息日に、苦しみをやわらげることをおこたる者は罪をまぬかれない。神の聖なる休みの日は、人のためにつくられたもので、あわれみの行為は、安息日の意図に完全に一致している。神はご自分の被造物が安息日でも他の日でも、苦しみをやわらげられるものなら、一時間でも苦しむことをお望みにならない。」(同上251, 252)


金曜日 3月14日

個人的な復習問題

1. ベテスダの池について広く信じられていることは何でしたか。

2. キリストの注意を引いた特別な状況は何でしたか。

3. わたしたちの霊的な麻痺はどのように癒されるのでしょうか。

4. ユダヤ人は奇跡的な癒しについて何が非常に腹立たしかったのでしょうか。

5. 安息日の戒めと調和しているのはどのような働きでしょうか。

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