a. バプテスマのヨハネはイエスに関してなんと宣言しましたか(ヨハネによる福音書 1:15–18)。b. ヨハネは宗教指導者たちにどのように自分自身を明らかにしましたか(ヨハネによる福音書 1:19–23)。どのような預言を彼は成就しましたか、またわたしたちはそれとどのように関係するでしょうか(イザヤ書 40:3–5)。「この地球歴史のあらゆる段階において、神はご自分の働きを推し進めるためにご自分の代理人を持っておられ、それはこのお方が指定された方法でなされなければならない。バプテスマのヨハネには主の道を備えるという、特別な働きがあり、そのために生まれそのために任命されたのである。…[彼の荒野での伝道は]最も顕著な文字通りの預言の成就であった。」(サザン・ウォッチマン1905年3月21日)「主は[バプテスマのヨハネに]ご自分のメッセージをお与えになった。彼が出て行って祭司や役人たちに行き、このメッセージを伝えても良いか、と尋ねたであろうか。否、神が彼を彼らから遠ざけられたのは彼が彼らの精神や教えに影響されないためであった。彼は荒野で呼ばわる者の声であった[イザヤ40:3-5引用]。これこそわたしたちの民に伝えられるべきメッセージである。わたしたちは時の終わりに近づいており、そのメッセージは王の大路を清めよ、石を集め、旗を高く掲げよ、である。今は平和だ、無事だと叫ぶ時ではない。」(セレクテッド・メッセージ1巻410)
2. 犠牲の使命 月曜日 1月6日
a. イエスがバプテスマを受けるためにヨハネのもとに来た時、ヨハネはどのようにこのお方を確認し、どのようにこのお方の公な働きを証しましたか(ヨハネによる福音書 1:29, 34)これはどの預言を成就したのでしょうか(イザヤ書 53:4–7)。「キリストは、今日、あがない主であると同様に、世の始めからのあがない主であられたのである。イエスが、人性によって神性をおおってこの世に来られる以前に、福音の使命はすでに、アダム、セツ、エノク、メトセラ、ノアによって伝えられたのである。アブラハムはカナンで、ロトはソドムで使命を伝えた。こうして、どの時代においても、忠実な使者たちは、きたるべきキリストのことを宣べた。ユダヤの犠式制度は、キリストご自身がお定めになったものであった。キリストこそユダヤ人の犠牲制度の基礎で、彼らの全宗教制度の偉大な実体である。犠牲がささげられたときに流された血は、神の小羊の犠牲をさし示していた。典型的ささげ物は、すべて、キリストによって成就した。」(キリストの実物教訓104)b. ヨハネはどのように自分の弟子たちにイエスを紹介しましたか(ヨハネによる福音書 1:35, 36)。彼の言葉は彼らにどのような影響を与えましたか、また次に彼の人生に何が起こりましたか(ヨハネによる福音書 1:37)。「〔キリストのバプテスマ後〕次の日、二人の弟子たちがそばに立っていた時、ヨハネはまたイエスを群衆の中にみいだした。ふたたび預言者の顔は目に見えない神の栄光に照され、彼は、『見よ、神の小羊』と叫んだ。このことばは弟子たちの心を感動させた。彼らはそのことばを十分に理解しなかった。ヨハネがイエスのことを『神の小羊』と呼んだその名にどういう意味があるのか、ヨハネ自身も説明したことがなかった。弟子たちは、ヨハネを残したまま、イエスを求めに行った。」(各時代の希望上巻156)「ヨハネは自分の弟子たちに、イエスが約束のメシヤ、世の救い主であると知らせた。ヨハネの働きが終わりに近づいたとき、彼は弟子たちに、イエスを大教師として仰いで、これに従うように教えた。ヨハネの一生は、悲しみと犠牲に満ちていた。彼はキリストの初臨を先ぶれしたが、キリストの奇跡を目に見、キリストによってあらわされる力を受けることはゆるされなかった。イエスが教師として立ちたもうときには、自分は死なねばならないことがヨハネにはわかっていた。ヨハネの声は、荒野よりほかにはほとんどきかれなかった。彼の一生は孤独だった。彼は、父親の家庭で家族との交わりを楽しむことに執着しないで、使命を果たすために家族を離れた。」(初代文集267, 268)
3. イエスの最初の弟子たち 火曜日 1月7日
a. 最初の弟子はだれでしたか(マタイによる福音書 4:18, 21)。彼らはキリストのどのような関心を表しましたか。またこのお方と最初に会ったのはどれくらいの間でしたか(ヨハネによる福音書 1:38, 39)。「〔イエスについて行った〕二人の中の一人は、シモンの兄弟アンデレだった。もう一人は伝道者ヨハネだった。この二人がキリストの最初の弟子だった。おさえきれない衝動にうごかされて、彼らは、イエスと語りたいと熱望しながらも、おそれの思いに沈黙したまま、『この方がメシヤだろうか』という重大な意味をもった思いにふけりながら、イエスのあとをついて行った。イエスは弟子たちが自分のあとからついてきていることをご存じだった。彼らはイエスの伝道の初穂だったので、これらの魂がご自分の恵みに応じたとき、この天来の教師の心にはよろこびがわいた。だがイエスは、ふりかえって、『何か願いがあるのか』とおたずねになっただけだった。イエスは彼らがひき返そうと、あるいは彼らの望みを語ろうと、自由にさせようとお思いになった。一つの目的だけを彼らは意識していた。一つの存在が彼らの思いを占めた。彼らは、『ラビ…(あなたは)どこにおとまりなのですか』と叫んだ。道ばたでの短い会見では、彼らの熱望しているものは得られないのであった。彼らはイエスとだけになり、その足下にすわり、みことばをききたいと望んだ。…もしヨハネとアンデレが祭司たちや役人たちのように不信な気持をいだいていたら、彼らはイエスの足下に学ぶ者とはならなかったであろう。彼らは批判者としてイエスのところへやってきて、そのみことばを批判したであろう。多くの者はこのようにして最もとうとい機会に対して戸をとざす。しかしこの最初の弟子たちはそうはしなかった。彼らはバプテスマのヨハネの説教のうちにあった聖霊の召しに応じていた。いま彼らは天来の教師のみ声をみとめた。彼らにとってイエスのみことばは新鮮さと真理と美しさに満ちていた。天来の光が旧約聖書の教えを照した。真理の多方面のテーマが新しい光の中にはっきりとうつし出された。」(各時代の希望上巻156, 157) b. 最初の弟子たちはイエスに出会って後すぐに何をしましたか(ヨハネによる福音書 1:41, 42)。「アンデレは自分の心を満たしたよろこびをわけ与えようとつとめた。彼は、兄弟のシモンをさがしに行って『わたしたちはメシヤ(訳せばキリスト)にいま出会った』と叫んだ(ヨハネ1:41)。シモンは次の招きを待たなかった。彼もまたバプテスマのヨハネの説教を聞いていたので、救い主のもとへ急いだ。」(同上158)
4. 偏見を打ち破る 水曜日 1月8日
a. イエスが次の弟子をご自分に従ってくるように召された時、何が起こったかを説明しなさい(ヨハネによる福音書 1:43–45)。「ピリポはその命令に従い、その場で彼もまたキリストの働き人となった。ピリポはナタナエルを呼んだ。」(各時代の希望上巻158)b. キリストがナタナエルのためらいを克服なさった方法からわたしたちは何を学ぶことができますか(ヨハネによる福音書 1:46–49)。「ナタナエルはイエスを見た時失望した。苦労と貧乏のしるしのあらわれているこの人がほんとうにメシヤだろうか。それでもナタナエルはイエスをこばむ決心ができなかった。ヨハネのことばが彼の心に確信を生じさせていたからである。ピリポがナタナエルを呼んだ時、ナタナエルは、ヨハネの宣言とメシヤに関する預言について瞑想するために静かな森にひっこんでいた。もしヨハネによって宣言されたおかたが救済者なら、そのことを示していただきたいと彼は祈った。すると聖霊が彼の上にくだり、神はその民を顧み、彼らのために救いの角をお立てになったのだという確信が与えられた…イエスは答えて言われた、『ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た』」。それで十分だった。いちじくの木の下でただひとり祈っていたナタナエルに証拠を示された聖霊が、こんどはイエスのみことばを通して彼に語られた。疑いと、いくらか偏見にとらわれながらも、ナタナエルは真理を求めるまじめな願いをもってキリストのところにきたのだが、いまその願いがかなえられた。彼の信仰は、彼をイエスのところへ連れていったピリポの信仰にまさった。彼は答えて、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』と言った(ヨハネ1:49)。もしナタナエルがラビの指導を信頼していたら、彼は決してイエスをみいださなかったであろう。彼は自分で見、自分で判断して、弟子となった。今日偏見にとらわれて恵みから遠ざかっている多くの人々の場合も同じである。もし彼らがきて見さえしたら、その結果はどんなに異なったものになるだろう。人間の権威による指導にたよっているかぎり、だれも救いの知識である真理に到達することができない。ナタナエルのように、われわれは神のみことばを自分で研究し、聖霊の光を求めて祈る必要がある。いちじくの木の下のナタナエルをごらんになったおかたは、かくれた祈りの場所にいるわれわれをごらんになる。光の国の天使たちは、へりくだって天のみちびきを求める者の近くにいる。」(同上158–161)