a. ガリラヤへの旅の途中、イエスとこのお方の弟子たちはどこに立ち寄りましたか(ヨハネによる福音書4:5, 6)。「イエスは、井戸ばたにすわられたとき、飢えとかわきのために弱っておられた。朝からの旅は長かった。そしていま真昼の太陽がイエスを照りつけていた。すぐそばにありながら手の届かないつめたい新鮮な水のことを思うと、イエスののどのかわきは一層つのった。つなもなければ水おけもなく、しかも井戸は深かった。イエスは人間の身であられたので、だれかが水をくみにくるのを待たれた。」(各時代の希望上巻217, 219)b. だれが井戸に来ましたか、またイエスは彼女にどのような願いをなさいましたか。わたしたちはこれから何を学ぶべきでしょうか(ヨハネによる福音書4:7)。「ユダヤ人とサマリヤ人との間に憎しみがあるために、この女はイエスに親切を申し出ることができなかった。しかし救い主はこの人の心にはいる鍵をみつけようとしておられたので、神の愛から生じる機知をもって、恩恵を提供するのではなくかえってこれを求められた。親切を提供しようとすれば、ことわられたかもしれなかった。だが信頼心は信頼心を呼び起す。天の王がこの見捨てられた魂のところにおいでになって、彼女の手の奉仕を求められたのである。大洋を作り、大海を支配し、この地上の泉と水路をお開きになったおかたが、疲れてヤコブの井戸のところで休み、一杯の水をもらうためにさえ見知らぬ人の親切にたよられたのである。」(同上219)
2. 異なった種類の水 月曜日 2月17日
a. 救いの賜物についてイエスはどのように女の注意を呼び覚まされましたか(ヨハネによる福音書4:10)。「キリストが言及なさった水とは、このお方のみ言葉における神の恵みの啓示であった。このお方の御霊、このお方の教えはすべての魂を満たす泉のようなものである。他のどの源を訪れてもそれらは満足させるものではないことが判明するであろう。しかし真理の言葉はレバノンの水によって表される冷たい流れのようなもので、いつでも満たしてくれるのである。キリストの内には永遠に満ち溢れる喜びがある。」(牧師への証390)b.キリストの申し出に対して女の反応はどのようなものでしたか(ヨハネによる福音書4:11, 12)。「その女の理解力はキリストの言われた意味を理解していなかった。彼女はこのお方が目の前にある井戸について語られているのだと思った。」(預言の霊2巻140, 141)c.イエスはどのようにしてある種類の水と別の水を区別なさいましたか、またこのメッセージはどのようにわたしたちにも祝福をもたらしますか(ヨハネによる福音書4:13, 14; ヨハネの黙示録 22:17)。「わたしたちは愛と感謝を大切にし、イエスを仰ぎ見、そしてこのお方の御姿に変えられるべきである。その結果として自信、希望、忍耐、勇気が増すであろう。わたしたちはキリストがサマリヤの女に語られた命の水を飲むべきである。このお方は『もしあなたが神の賜物のことを知り、また、「水を飲ませてくれ」と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。…わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう』。この水はキリストの命を表しており、すべての魂は神との生きたつながりを持つことによってこれを得なければならない。そうすれば、祝福された、謙遜な、感謝に満ちた確信が魂の中に宿る原則となるのである。不信仰な恐れは生きた信仰の前から一掃される。わたしたちはわたしたちを初めに愛してくださったお方のご品性を熟考すべきである。」(牧師への証226)
3. 生ける水 火曜日 2月18日
a. どのようにサマリヤの女はまだキリストのみ言葉を理解していないことを表しましたか(ヨハネによる福音書4:15)。「キリストだけがお与えになれる神の恵みこそ、魂をきよめ、清新にし、活気づける生ける水である。イエスは、一杯のいのちの水を受けるだけで十分であるという意味のことは言われなかった。キリストの愛を味わう者はたえずもっと求める。だがそれ以外のものは何も求めない。彼には世の富も栄えも楽しみも、魅力がない。彼の心は、『もっとあなたを』とたえず叫びつづける。魂に必要をお示しになるおかたが、その飢えとかわきを満たそうと待っておられる。人間的な手段や人間にたよるときにみな失敗する。水槽はからになり、水たまりはかわく。だがあがない主は尽きない泉である。飲んでも飲んでも新しい水がいつでもわいている。キリストを内住させている人は、自分のうちに祝福の泉、永遠のいのちに至る水のわきあがる泉を持っている。この泉から、彼は自分のすべての必要を満たすのに十分な力と恵みとをくむことができる。」(各時代の希望上巻221)b. サマリヤの女や出エジプト記の荒野の放浪者たちのように、わたしたちはどのようにしばしばキリストから流れ出る素晴らしい恵みに気づくことに失敗するのでしょうか(詩篇78:15, 16, 19, 20 (上句); 114:7, 8)。「モーセは岩を打ったが、モーセのかたわらに立って、いのちの水を流れさせたのは、雲の柱におおわれていた神のみ子であった。モーセと長老たちばかりでなく、離れて立っていた会衆のすべてが主の栄光を見た。しかし、もし雲がとり除かれたら、彼らはその中にとどまっておられるおかたの恐るべき輝きで殺されたであろう。」(人類のあけぼの上巻346)「み言葉の中にあるキリストの恵み深いご臨在は、常に魂に語りかけ、渇いた魂を生き返らせる生ける水の井戸としてのお方を表している。生ける永遠に不変の救い主をわたしたちが得ることができるのはわたしたちの特権である。このお方はわたしたちの内に植え付けられた霊的な力の源であり、このお方の影響は言葉や行動となって現れ、わたしたちの影響力の及ぶ範囲内のすべての人を活気づけ、強さと清さ、神聖さと平和、また悲しみをもたらさない喜びに対する望みと熱望を人々の内に生み出す。これは救い主が内住してくださる結果である。」(牧師への証390)