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Sabbath Bible Lessons

ヨハネによる福音からの教訓(パート1)

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第12課 息日2025年3月22日

子の権威

暗唱聖句:「それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。」(ヨハネによる福音書 5:26, 27)

「あなたがたが非難している働きをなす権威がわたしにあるのは、わたしが神の子であり、性質においても、意思においても、目的においても、神と一つであるからだと、イエスは言われた。創造と摂理におけるすべての神の働きに、わたしは神と協力しているのだ。」(各時代の希望上巻254)

推奨文献:   祝福の山 153-160 

日曜日 3月16日

1. 神と等しい

a. 安息日に中風患者を癒されたことの他に、ユダヤ人がイエスを憎んだ理由は何でしたか(ヨハネによる福音書 5:17, 18)。

「イエスは神と等しい権利を主張された…

ユダヤ国民はみな、神を父と呼んでいたのだから、キリストが神に対して同じ関係にあるといわれても、そんなに怒る理由はなかった。しかし彼らは、キリストのこの主張が、最高の意味においてなされたものと判断されると言って、キリストを冒涜だと非難した。」(各時代の希望上巻253)

b. キリストは人間の伝統を超えた神の戒めの権威をどのように証明なさいましたか(マタイによる福音書 15:1–9, 13)。

「このようなキリストの敵どもは、キリストが彼らの良心に感じさせられる真理に議論をもって対抗することができなかった。彼らは自分たちの慣習や言い伝えをひき合いに出すことしかできなかった。だがそうした者は、イエスが神のみことばと休むことのない自然の営みから引用される議論にくらべたときに、無力で、間の抜けたもののように思えた。」(同上253, 254)


月曜日 3月17日

2. 御父と一つ

a. どのようにイエスは御父とご自分との関係を説明なさいましたか(ヨハネによる福音書 5:19, 20)。

b. キリストは御父に属するどのような権威と権力をご自分も持っておられると宣言なさいましたか(ヨハネによる福音書 5:21–23)。

「祭司たちと役人たちは、自らをキリストのみわざに罪を宣告する裁判官の立場に置いていたが、キリストは、ご自身が彼らのさばき主であり、また全地のさばき主であると宣言された。世はキリストにまかされ、キリストを通して、神からのすべての祝福が堕落した人類に与えられた。キリストは受肉の後と同じように、受肉の前にもあがない主であられた。罪が生じると同時に、救い主がおられた。彼はすべての者に光といのちをお与えにな

ったので、各人は、与えられた光の量に従ってさばかれる。光をお与えになったおかた、最もやさしい懇願をもって魂を追いかけ、その魂を罪から聖潔へみちびこうとされたおかたが、魂の助け主であると同時にまたさばき主である。」 (各時代の希望上巻257, 258)

c. キリストがわたしたちのさばき主であられることを認識した時に起こる態度の変化について述べなさい(ローマ人への手紙 2:1–3; マタイによる福音書 7:1)。

「批判的精神をほしいままにする者は、彼が非難している相手よりも、もっと大きな罪を犯しているのである。なぜなら、彼は同じ罪を犯すばかりでなく、さらに高慢とあらさがしの罪を犯しているからである。

キリストが品性のただ一つの、真の標準である。自分を他の人々の標準とする者は、キリストの位置に自己を置いているのである。また、父は『さばきのことはすべて、子にゆだねられた』のであるから(ヨハネ5:22)、他の人の動機をさばくようなことをする者は、神のみ子の大権奪っていることになるのである。これらのひとりよがりの裁判官や批評家は、『すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上り、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する』反キリストの側に立っているのである(テサロニケ第二2:4)。」(祝福の山156, 157)

「わたしたちは人の心を読むことはできない。わたしたち自身、不完全な者であって、さばきの座に着く資格はない。有限な人間は、外から見たところによってさばき得るだけである。行為のかくれた動機を知り、優しく同情をもって処置なさる神にのみ、すべての人間の問題の決定がゆだねられている。」(同上154, 155)


火曜日 3月18日

3. 尊い保証

a. キリストにあってすべての献身した信者に与えられている保証は何ですか(ヨハネによる福音書 5:24)。

「神のことばの中にあるすべの命令とすべての約束には、力、すなわち、神の命そのものが宿っている。それであるから、命令はなしとげられ、約束は果たされる。信仰によって、ことばをうけいれる者は、神の命と品性そのものを受けているのである。」(キリストの実物教訓15)

「悪に染まり、汚れた罪人のためになされる偉大な働きこそ、義認の働きである。真理を語られるお方によって彼は義であると宣言される。主は信じる者にキリストの義をお与えになり、宇宙の前で彼を義であると宣言なさる。このお方は自分の罪を罪びとの代理人であり、身代わり、また保証人であられるイエスに移す。キリストの上に、このお方は信じるすべての魂の不義を置かれる。『神はわたしたちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである』(コリント第二5:21)。…

罪人であるわたしたちは律法の有罪宣告の下にいるが、キリストは律法に対して捧げたご自分の従順によって、悔い改めた魂のためにご自身の義の功績を主張なさる。キリストの義を得るために、罪人は心と精神と行動に根本的な変化をもたらす悔い改めがなんであるかを知る必要がある。変化の働きは心から始まり、存在のあらゆる能力を通じてその力を表さなければならない。しかし人にはこのような悔い改めを得る力はなく、天上に上り、囚われ人を解放し、人々に賜物を分け与えて下さったキリストによってのみ、このような悔い改めを経験することができるのである。」(セレクテッド・メッセージ1巻392, 393)

b. キリストはどのような神聖な特権を持っておられることを明らかになさいましたか(ヨハネによる福音書 5:25–29)。

「キリストは、人間のあらゆる苦悩と試みとを経験し、人の弱さと罪とを理解されるので、また主はわれわれのためにサタンの試みに抵抗して勝利し、救うためにご自身の血を流された魂を正しく、やさしくとり扱われるので、このゆえに、人の子イエスは、さばきを行うように任命されているのである。」(各時代の希望上巻258)

「キリストはすべての被造物に命を与えるために力をまとっておられる。」(セレクテッド・メッセージ1巻249)


水曜日 3月19日

4. イエス、聖書の中心主題

a. イエスはユダヤ人の不信仰の原因をどのように説明なさいましたか(ヨハネによる福音書 5:37, 38)。

「イエスは、彼らが文句をつけている行為について、弁解したり、どういう目的でそのようなことをしたかを説明したりなさらず、役人たちに向き直って、被告から告発者になられた。イエスは彼らの無慈悲な心と聖書についての無知とを責められた。彼らは、神からつかわされたおかたをこばんだのだから、神のみことばをこばんだことになるのだと、イエスは断言された。」(各時代の希望上巻259,260)

b. なぜユダヤ人は聖書を理解することに失敗したのですか(ヨハネによる福音書 5:39, 40)。

「旧約聖書は、歴史であろうと、それが神の制度であるかぎり、福音のぎっしりつまった預言であった。キリストについて『預言者たちもみな…あかしをしています』と言われている(使徒行伝10:43)。アダムに与えられた約束から、父祖の家系と律法とを通じて、天の輝かしい光はあがない主の足跡を明らかにした。預言者たちは、未来の事柄が神秘的な行列をなして目の前を通り過ぎたときに、ベツレヘムの星、きたるべきシロをみた。すべてのいけにえにキリストの死が示された。香煙の一すじ一すじにキリストの義がのぼった。ヨベルのラッパの鳴るたびにキリストのみ名がひびき渡った。至聖所のおそれ多い神秘の中に、キリストの栄光がとどまっていた。

ユダヤ人たちは聖書を所有していてみことばを外面的に知ることだけで永遠のいのちが与えられると思っていた。しかしイエスは、『神の御言(みことば)はあなたがたのうちにとどまっていない』といわれた。彼らはみことばの中のキリストをこばんだので、人となられたキリストをこばんだ。『あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない』とイエスは言われた(ヨハネ5:38、40)。

「ユダヤ人の指導者たちは、メシヤの王国に関する預言者たちの教えを学んでいたが、それは真理を知ろうとする真剣な願いからではなく、彼らの野心的な望みを支持する証拠をさがし出すのが目的だった。キリストが彼らの期待に反する様子でこられたとき、彼らは、キリストを受け入れようとしなかった。そして彼らは、自分自身を正当づけるために、キリストが欺瞞者であることを証拠だてようとした。彼らがこの道にひとたび足を踏みいれたとき、サタンがキリストに対する彼らの反対を強めることは容易だった。キリストの神聖の証拠として受けとられるはずのことばが、キリストに不利なように解釈された。こうして彼らは、神の真理を虚偽に変え…た」(同上260, 261)


木曜日 3月20日

5. 神の栄光

a. なぜユダヤ人はイエスを拒み、偽りの教師を求めるように導かれたのでしょうか(ヨハネによる福音書 5:41–44)。

「イエスは、『わたしは人からの誉を受けることはしない』と言われた。イエスがお望みになったのは、サンヒドリンの権力でもなければ、サンヒドリンからみとめられることでもなかった。イエスがサンヒドリンから是認されたとしても、イエスにとっては誉とならなかった。イエスは天の神の誉と権威とをさずかっておられた。イエスがお望みになれば、天使たちがやってきて尊敬をささげ、天父はもう一度イエスの神性を証明されたであろう。だがユダヤ人の指導者たち自身のために、また彼らが指導している国民のために、イエスは、彼らがイエスの品性をみとめ、イエスが彼らに与えるためにおいでになったその祝福を彼らが受けることを望まれた。

『わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるであろう』。イエスは、神のみかたちをそなえ、神のみことばを成就し、神のみ栄えを求め、神の権威によっておいでになった。それでもイエスは、イスラエルの指導者たちから受けいれられなかった。しかしほかの人たちがキリストの品性をよそおいながら、自分自身の意思にもとづいて行動し、自分自身の栄えを求めてやってくるなら、彼らは受け入れられるであろう。それはなぜだろうか。自分自身の栄えを求める者は、ほかの人たちのうちにある高慢心に訴えるからである。このような訴えならば 、ユダヤ人はこれに応ずることができるのである。偽りの教師は、ユダヤ人の宿望や言い伝えを是認することによって、彼らの誇りにへつらうので、彼らはそうしたにせ教師を受け入れるのである。だがキリストの教えは、彼らの考えに一致しなかった。キリストの教えは、霊的で、自我を犠牲にすることを要求した。そのため彼らは、キリストの教えを受け入れようとしなかった。彼らは、神を親しく知っていなかったので、キリストを通して語られる神のみ声は、彼らにとって見知らぬ人の声であった。

わたしたちの時代にも同じことが繰り返されていないであろうか。多くの者たちは、宗教指導者たちでさえ、聖霊に対して自分の心をかたくなにし、神のみ声を認識できなくしてはいないだろうか。彼らは自分自身の伝統を守るために、神のみ言葉を拒んではいないだろうか。」(各時代の希望上巻261, 262)


金曜日 3月21日

個人的な復習問題

1. キリストはどのような権威と権利を主張なさいましたか。

2. イエスと御父との間には常にどのような関係が存在していましたか。

3. キリストは命をお与えになるどのような御力を持っておられますか。

4. ヨハネによる福音書 5:39を説明しなさい。

5. ユダヤ人国民がメシヤとしてのイエスを拒んだ結果を述べなさい。

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