日曜日
3月30日
1. 野心的な熱心さ
a. パンの奇跡の後、多くの人々をとらえた確信は何でしたか(ヨハネによる福音書 6:14)。彼らは熱心に何をしようとしましたか(ヨハネによる福音書 6:15(上句))。
「終日この確信は強まって行った。あの最高のみわざこそ、長い間待望していた救世主がわれわれの中におられる証拠である。人々の望みはだんだん高まっていく。この方こそユダヤをこの世の楽園にし、乳と蜜の流れる地にしてくださるおかたである。彼はあらゆる望みを満足させてくださることができる。彼は憎むべきローマ人の権力を打破することがおできになる。彼はユダとエルサレムを救うことがおできになる。彼は戦いに傷ついた兵士たちをいやすことがおできになる。彼は全軍に食物を補給することがおできになる。彼は諸国を征服し、イスラエルが長い間求めていた主権を与えることがおできになる。
民衆は 熱心のあまりいますぐにもイエスを王位につけようとする。彼らは、イエスがご自分に注意をひきつけたり、栄誉を求めたりしようと努力されないのを見る。この点イエスは祭司たちや役人たちと根本的にちがっておられるので、彼らはイエスがダビデの位につく権利を主張されないのではないかと恐れる。彼らは相談し合って、イエスをむりやりにおし立て、イスラエルの王として宣言することに一致する。弟子たちも群衆といっしょになって、ダビデの位が彼らの主の正当な嗣業であることを宣言しようとする。キリストがこのような栄誉をこばまれるのは、遠慮のせいだと彼らは言う。民衆に救世主をあがめさせよう。高慢な祭司たちや役人たちにも、神の権威を帯びてこられたイエスを否応なしにあがめさせよう。」(各時代の希望中巻116-118)
月曜日
3月31日
2. 誤り導かれた熱心さをしずめる
a. イエスはご自分を地上の王座につけようとする群衆や弟子たちの計画を阻止するために、何をされましたか(ヨハネによる福音書 6:15)。
「〔弟子たちと群衆〕は自分たちの目的を実行する手はずを熱心に進める。だがイエスは、この成り行きをごらんになり、彼らには理解できないが、このような運動の結果がどうなるかを理解される。いまでさえ祭司たちと役人たちは、イエスのいのちをねらっている。彼らは、イエスが民衆を彼らから引離しているといって非難している。イエスを王位につけようとする努力には暴力と反乱がともない、霊的王国のみわざがさまたげられるであろう。すぐにこの運動をとめなければならない。イエスは、弟子たちをお呼びになって、民衆を解散させるためにわたしは残るから、あなたがたは舟に乗ってすぐカペナウムヘもどりなさいと命じられる。
キリストの命令がこれほど実行できないことに思えたことはこれまでになかった。弟子たちは、イエスを王位につける民衆の運動を長い間待ち望んできた。彼らは、このような熱心さがみなむだになってしまうという考えに耐えられなかった。過越節を守るために集まってきている群衆は、この新しい預言者を見たがっていた。キリストに従っている者たちにとって、これこそ愛する主のためにイスラエルの王位を確立する絶好の機会に思えた。
この新しい野心が燃えあがっている中を、淋しい岸辺にイエスひとりを残して、自分たちだけで立ち去るのはつらいことだった。彼らはこの手配に抗議した。だがイエスは、かつてこれまで彼らに対してとられたことのない権威をもって、いま彼らに語られた。彼らは、これ以上反対することが無益であることを知り、だまって海へ向かった。」(各時代の希望中巻118, 119)
b. 奇跡の翌日、群衆は何をしましたか(ヨハネによる福音書 6:22–25)。
「パンの奇跡についてのうわさが遠近にひろがると、人々は、イエスを見に翌朝非常に早くベッサイダに集まってきた。彼らは、大変な人数で、海と陸づたいにやってきた。前の晩帰って行った者たちも、イエスが向こう岸に渡られる舟がなかったので、まだそこにおられると思ってまたやってきた。しかしさがしても、イエスはおられなかったので、多くの者はまだイエスをさがし求めながらカペナウムに行った。
とかくするうちに、イエスは一日だけ姿をお見せにならなかったあと、ゲネサレに着いておられた。イエスが上陸されたことがわかると、人々は、『その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた』(マルコ6:55)。」(同上128)
火曜日
4月1日
3. より良い目的、神の助け
a. 率直でありながら思いやり深いどのようなメッセージを、イエスは群衆にお与えになりましたか(ヨハネによる福音書 6:26, 27)。
「イエスは、彼らの好奇心を満足させられなかった。彼は、『あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである』と悲しそうに言われた(ヨハネ6:26)。彼らがイエスを求めたのはりっぱな動機からではなく、パンを食べさせてもらったので、キリストについていることによって、もっとこの 世の利益を受けようと望んだからであった。救い主は『朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい』とお命じになった(ヨハネ6:27)。物質的な利益だけを求めてはならない。現世のために備えることだけが主要な努力であってはならない。霊的な食物すなわち永遠のいのちにいたるまで続く知恵を求めなさい。」(各時代の希望中巻128, 129)
b. ユダヤ人は、神のみわざについて、イエスにどのような質問をしましたか(ヨハネによる福音書 6:28)。主がお与えになった回答を説明しなさい(ヨハネによる福音書 6:29)。
「ちょっとの間、聴衆の興味が呼び起こされた。彼らは叫んで言った、『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』(ヨハネ6:28)。彼らは、神の気に入るようにたくさんのわずらわしいわざを行ってきたが、もっと 大きな功績になるために遵奉すべき新しいことがあったら聞きたいという気になった。彼らの質問は、天国にはいる資格を得るためにはわれわれは何をしなければならないか、きたるべきいのちを手に入れるためにはどんな代価を払わねばならないかというのであった。
「イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」(ヨハネ6:29)。天国の代価はイエスである。天国への道は、『世の罪を取り除く神の小羊』を信ずる信仰によるのである (ヨハネ1:29)。」(同上129)
「悔い改めとは自己からキリストヘと向きなおることである。そして信仰によってキリストを受け入れ、わたしたちのうちにキリストが生きてくださるようにするとき、よきわざがあらわれる。」(祝福の山108)
「主がご自分の民を助けて下さって、なされるべき真剣な働きがあることを悟らせてくださるように。…家庭で、教会で、世界で、彼らはキリストの働きをなさなければならない。彼らは自分たちだけで労するよう取り残されてはいない。御使たちが彼らの助け手である。そしてキリストが彼らの助け手なのである。」(教会への証8巻18)
水曜日
4月2日
3. 天のパン
a. ユダヤ人は、どのしるしを望みましたか。またどの歴史的事実を述べましたか(ヨハネによる福音書 6:30, 31)。イエスは天からのパンについて、どのように言われましたか(ヨハネによる福音書 6:32, 33)。
「ユダヤ人はマナを与えてくれた人としてモーセをあがめ、うつわにすぎない彼に賛美をささげて、そのわざをなしとげられたキリストを見落していた。彼らの先祖たちは、モーセに向かってつぶやき、彼の天来の使命を疑い、これを否定した。いま同じ精神で、イスラエルの子らは、自分たちに神のメッセージを伝えておられるおかたを拒絶した。「そこでイエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない』」(ヨハネ六ノ三二)。マナをお与えになったおかたが彼らの中に立っておられた。荒野のヘブル人をみちびき、天からのパンで彼らを日々養われたのはキリストご自身であった。この食物は天のまことのパンの型であった 。無限に満ち足りた神のみもとから流れ出るいのちを与えるみたまは、まことのマナである。」(各時代の希望中巻131, 132)
b. 彼らの思いは自然な実際のパンにばかり執着していたために、どんな要求をしましたか。そして主はどのように説明なさいましたか(ヨハネによる福音書 6:34–36)。
「イエスがお用いになった比喩は、ユダヤ人のよく知っている比喩であった。モーセは、聖霊の感化を受けて、『人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる』と言った(申命記8:3)。また預言者エレミ ヤはこう書いた、『わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました』(エレミヤ書15:16)。ラビたち自身の間にも、パンを食べるということの霊的な意味は、律法を学び、よいわざを実行することであるという言いならわしがあった。そして、メシヤが来臨されると、イスラエル全体が養われるということがよく言われていた。預言者たちの教えは、パンの奇跡に含まれている深い霊的な教訓を明らかにした。キリストは、会堂の聴衆に、この教訓を明らかにしようとしておられた。もし彼らが聖書を理解していたら、彼らは、『わたしが命のパンである』というキリストのみことばをさとったのである(ヨハネ6:35)。疲れて、弱り果てた大群衆が、キリストから与えられたパンで養われたのはついきのうのことであった。そのパンから肉体の力と元気とを受けたように、彼らは、キリストから永遠のいのちにいたる霊的な力を受けられるのであった。」(同上132, 133)
木曜日
4月3日
4. 復活と永遠の命
a. 密接につながったどの二つの約束が自らキリストと利害を共にする人々に与えられていますか。またこれはどのように一人びとりの罪人に希望をもたらしますか(ヨハネによる福音書 6:37–40)。
「信仰をもってキリストを受け入れる者は永遠のいのちを持つと、主は言われた。(各時代の希望中巻133)
「自分がもっと善良になり、神の前に出るにふさわしい者となるまでは、キリストに近づくべきではないという敵のささやきに耳を傾けてはならない。それまで待っているとすれば、いつまでも主のところに来ることはできない。もし、サタンが、あなたの汚れた衣を指さすならば、『わたしに来る者を決して拒みはしない』というイエスの約束をくりかえしなさい(ヨハネ6:37)。イエス・キリストの血がすべての罪から清めると敵に言いなさい。ダビデの祈りをあなたの祈りとして言いなさい。『ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう』(詩篇51:7)。
立って、 あなたの天の父に帰りなさい。神は、遠くからあなたを迎えてくださる。あなたが悔い改めて、一歩神に向かって進むならば、神は、永遠の愛の腕にあなたをいだこうと走りよられるのである。神の耳は、悔い改めた魂の叫びを聞くために開かれている。人の心が、まず神を求め出したその瞬間を、神は、ご存じである。どのようにためらいがちの祈りであっても、どのようなひそかな涙であっても、どのようなか弱い切なる心の願いであっても、必ず神の霊がそれを迎えに出られるのである。キリストから与えられる恵みは、祈りが口から出て、心の願いが述べられるその以前にすでに、人の心に働いている恵みに合流する。」(キリストの実物教訓186)
b. 不信のユダヤ人は何をつぶやき、イエスはご自分を信じる人々に、どの約束をくり返されましたか(ヨハネによる福音書 6:41–51)。
金曜日
4月4日
個人的な復習問題
1. パンの奇跡の後、キリストに従う人々は何をしようと計画しましたか。
2. イエスに従っていた群衆の主たる関心を述べなさい。
3. ヨハネによる福音書 6:29にあるイエスの言葉を説明しなさい。
4. キリストは霊的な命の源を表現するためにどの例証をお用いになりましたか。
5. ユダヤ人の指導者たちはどのようにキリストに対する偏見を表しましたか。