日曜日
4月27日
1. イエスのためのわな
a. イエスが宮で教えておられる間、律法学者やパリサイ人は何をしていましたか(ヨハネによる福音書 8:2–3)。
「イエスの話はすぐにさまたげられた。パリサイ人と律法学者の一群が、恐怖におびえた女をひっぱってイエスに近づき、はげしく熱心な声で、この女が第七条の戒めを犯したことを責めた。」(各時代の希望中巻246)
b. 律法に対して外見上は敬意を示しながら、パリサイ人はキリストにどの質問をしましたか。また彼らの真の意図は何でしたか(ヨハネによる福音書 8:4–6(上句))。
「彼らの敬虔のよそおいの下には、イエスの破滅をたくらむ深い陰謀がかくされていた。彼らは、イエスがどんな決定をくだされるにせよ、彼を非難するチャンスをみつけることができると考え、イエスを罪に定めるのにこの機会をとらえたのであった。もしイエスがこの女を無罪とされたら、モーセの律法を軽んじているという非難を受けられるだろう。もしこの女が死に値すると宣告されたら、イエスは、ローマ人にのみ属している権威を自分がとられたといってローマ人に対して訴えられるであろう。」(同上)
月曜日
4月28日
2. 真の構図が明らかにされる
a. パリサイ人の欺瞞に、イエスはどのように応じられましたか(ヨハネによる福音書 8:6(下句))。
「イエスはしばらくその光景―恥ずかしさにうちふるえている被害者と人間的なあわれみの情さえないこわい顔つきをした高官たちとをながめておられた。けがれのないイエスの純潔な心はその光景にすくんだ。この問題がどんな目的で自分のところへ持ち込まれたかを、イエスはよくご存知だった。イエスはみ前にいる一人びとりの心を読み、その品性と経歴を知っておられた。正義の擁護者を気取っているこれらの人たちは、イエスをわなにかけるために自分たちでこの被害者を罪におとし入れたのだった。イエスは、彼らの質問を聞いた様子をなさらずに、かがみこんで、目をじっと地面にそそぎ、土の上に何か書き始められた。」(各時代の希望中巻246, 247)
b. イエスは、どのように告発者自身、罪のない者はいないことを示されましたか。またそのとき彼らは何をしましたか(ヨハネによる福音書 8:7–9)。
「告発者たちは敗北した。いま聖潔をよそおった彼らの衣は引きはがされ、彼らは限りない純潔そのものであられるおかたの前に、不義と罪に定められて立っていた。彼らは自分たちの生活のかくれた不義が群衆の前にさらけ出されはしないかとふるえあがった。そしてひとりずつ、頭をたれ、目を伏せて、被害者を同情深い救い主といっしょに残したまま、こそこそと立ち去った。」(各時代の希望中巻247, 248)
c. 一般的に、わたしたちみな、告発者に対するイエスの言葉から何を学ぶべきですか(ルカによる福音書 6:42)。
「自分たちにとって過ちがあると見える事柄を改革したがり、早まる人々がいるものである。彼らは過ちを犯した人々に自分たちが取って代わるために選ばれるべきだと考える。彼らは自分たちが見て批判している間に、これらの働き人たちがなしてきたことの価値を軽視する。彼らは自分の行動によって、『わたしは大きなことができる。成功のうちに働きを進めることができる』と言うのである。自分は過ちを避ける方法をよく知っていると考える人々にわたしは次のように言うよう指示されている。『人をさばくな。自分がさばかれないためである』(マタイ7:1)。あなたはある点において過ちを避けることができるかもしれないが、他のことについては深刻な大失敗をしがちである。それらは回復するのが非常に難しく、働きに混乱をもたらすかもしれない。これらの過ちはあなたの兄弟たちが犯した過ちよりもさらに有害であろう。」 (教会への証7巻279)
火曜日
4月29日
3. 予期しない行動
a. イエスは女の告発者が去った後、彼女に何をお尋ねになりましたか。また状況を対処されたこのお方の方法は、その後の彼女の人生にどのように影響を及ぼしましたか(ヨハネによる福音書 8:10, 11)。
「女は恐怖にすくみながら、イエスの前に立っていたが、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』との主のお言葉は彼女にとって死の宣告であった。彼女は救い主を見あげる勇気もなく、だまって自分の運命を待っていた。しかし驚いたことに、彼女を訴えた人々が、ひと言も言わずに、あわてて去って行くのを見た。それから、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』との望みの言葉を聞いたのであった。彼女の心はとけ、イエスの足もとにひれ伏して、彼女はありがたさに泣き、悲しみの涙を流して、その罪を告白した。
彼女にとってこれは新しい生涯、すなわち神に献身した純潔と平安な生涯の始まりだった。この堕落した魂を向上させることによって、イエスは最も重い肉体の病気をいやすよりも大きな奇跡をなさった。すなわち永遠の死にいたる、霊的な病気をおいやしになったのである。この悔い改めた女はキリストの最も変らない弟子のひとりとなった。彼女はキリストのあわれみによるゆるしに対して、自己犠牲の愛と信仰をもって感謝を表示した。社会はこの誤った女を軽蔑し、嘲笑するだけであったが、罪なきキリストは、彼女の弱さをあわれみ、救いの手をおのべになった。偽善的なパリサイ人が非難しても、イエスは『お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』とお命じになったのである。」(ミニストリー・オブ・ヒーリング59, 60)
「この女をゆるし、もっとよい生活をするように励ましておやりになったイエスの行為を通して、イエスのご品性は完全な義の美しさに輝いている。イエスは、罪を軽く見たり、不義の意識を弱めたりはされないが、罪に定めようとしないで、救おうとされる。世の人たちは、過失を犯しているこの女を軽蔑し嘲笑することしかしなかった。だがイエスは、慰めと望みのことばを語られる。」(各時代の希望中巻249)
b. キリストの救う恵みの効果を述べなさい(ルカによる福音書 7:37–40, 47, 48)。
「イエスはどの魂の事情もご存じである。罪びとの罪が重ければ重いだけ、救い主を必要とするのである。キリストの神聖な愛と同情心は、敵のわなにかかって、最も望みのない状態になった者に、まず向けられる。キリストはご自分の血で、人類釈放の証書に署名なさった。」(ミニストリー・オブ・ヒーリング60)
水曜日
4月30日
4. 広く降り注がれた慰め
a. わたしたちの態度、特に他の人々との関係において、何が特徴となるべきですか。またこれはどのようにしてのみ可能ですか(コリント人への第二の手紙 1:3–5)。
「環境は、魂の経験とそれほど関係がない。わたしたちのすべての行動に色を決めるのは心にいだいている精神である。神と同胞である人と平和を得ている人はみじめになることができない。妬みは心の中にない。邪推は心の中に居場所がない。憎しみは存在しない。神と調和している心は、この世でのいらだちや試練に超越して引き上げられている。」(教会への証5巻488)
「イエスが慰めの力を経験されたのは、悲しみを通してであった。彼は、人類のすべての苦難お受けになった。『主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである』(ヘブル2:18、イザヤ書63:9)。主の苦しみを共に味わった者は、この働きにあずかる特権をもつ。」(祝福の山 15, 16)
b. キリストの御足の跡に従うことにある類のない希望や特権を述べなさい(コリント人への第二の手紙 1:6, 7)。
「もしあなたがキリストの苦難にあずかる者となることを誇りとして感じないのであれば、もしあなたが滅びつつある人々のために魂の重荷を感じないならば、もしあなたがなされるべき働きのための資金を蓄えるべく犠牲を払いたくないのであれば、神の王国には他のための場所はない。わたしたちは一歩ごとにキリストの苦しみと自己否定について、このお方にあずかる者となる必要がある。」 (教会への証9巻103, 104)
c. 三天使のメッセージにおいて信徒たちの間に最も必要とされている資質を述べなさい(コリント人への第一の手紙 13:13, 4–8)。
「神の戒めを守る民が心にいだくべき最も必要な特徴は、忍耐と寛容、平和と愛である。愛が欠けているとき、取り返しのつかない損失をこうむる。」(同上6巻398, 399)
木曜日
5月1日
5. やさしい回復
a. もしクリスチャンが罪に陥ったら、真の信徒はどのように行動しますか。対照的に、偽りの心を持つ信徒は、しばしば何をしますか(ガラテヤ人への手紙 6:1–3; ローマ人への手紙 15:1–3)。
「回復の働きがわたしたちの重荷であるべきことを心にとめていなさい。この働きは、誇り高く、横柄な、主人のようなやり方でなされるべきではない。あなたのやり方によって、『わたしには力がある、わたしはそれを使う』と言い、過ちを犯している人に告発を注ぎ出してはならない。あなたの回復を『柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省し』て行いなさい。わたしたちがなすべき目の前にある兄弟のための働きは、彼らを外に出す働きではない。『あなたはわたしを失望させてしまった。もう助けようとは思わない』と言って、失望と絶望へ追いやることではないのである。自らを知恵と力に満ちた者とし、圧迫され、悩み、助けを切望している人を押さえつける人は、パリサイ人の精神を表し、自己で成り立つ尊厳という衣を身にまとう。その精神において、彼は神に自分が他の人のようでないことを感謝し、自分の取る道は賞賛に値するものであり、自分が誘惑されないほど強いと考える。しかし、『もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである』(3節)。」 (教会への証6巻398)
「過失を犯している者たちに目をそむけ、彼らが堕落の道を進むのをとめもしないで放っておくのは、キリストの弟子ではない。自分が先頭に立ってほかの人たちを非難し、律法に照して彼らを処断するのに熱心な人々が、自分自身の生活においては相手よりももっと罪深い場合がしばしばある。人間は罪人を憎みながら、一方では罪を愛する。キリストは罪を憎まれるが、罪人を愛される。これがキリストに従うすべての者の精神である。クリスチャンの愛はいつも、人を非難するのに遅く、悔い改めをみとめるのに早く、人をゆるし、励まし、さまよっている者を聖潔の道に歩ませ、彼の足をそこにしっかりとどめるようにするのである。」(各時代の希望中巻249)
金曜日
5月2日
個人的な復習問題
1. 律法学者とパリサイ人がイエスのためにしかけたわなを説明しなさい。
2. 偽善的なユダヤ人は、外見上、どのように律法に対する敬意を示しましたか。
3. 告発するユダヤ人は、自らについて何を認めざるを得ませんでしたか。
4. 過ちに陥り、悪い扱いを受けた女に与えられた希望を述べなさい。
5. 過ちに陥っている魂を扱うときに、どうしたら、もっとイエスのようになれますか。