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Sabbath Bible Lessons

ヨハネによる福音からの教訓 (パート 2)

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第8課 安息日2025年5月24日

イエスとアブラハム

暗唱聖句:「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。(ヨハネによる福音書 8:56)

「〔アブラハム〕は、自分が死ぬ前にメシヤを見ることができるようにと最も熱心な祈りをささげた。そして彼はキリストを見た。」(各時代の希望中巻259)

推奨文献:   キリストの実物教訓245–247, 304–306 
  初代文集260–266 

日曜日 5月18日

1. アブラハムの子ら

a. パリサイ人たちは絶えず、どの主張を繰り返しましたか(ヨハネによる福音書 8:33, 39(上句))。しかし、何がその関係を証明するのですか(ヨハネによる福音書 8:39(下句), 56; ローマ人への手紙 9:6–8)。

「パリサイ人は、自分たちはアブラハムの子であると宣言していた。この主張はアブラハムのわざをすることによってのみ立証できるのだと、イエスは彼らにお告げになった。アブラハムの真の子ならば、アブラハムと同じように、神に服従する生活を送るであろう。彼らは、神から与えられた真理を語っておられるおかたを殺そうとはしないであろう。キリストに対して陰謀をくわだてているのだから、ラビたちは、アブラハムのわざをしているとはいえなかった。アブラハムの系図による子孫であるということだけでは、何の価値もなかった。アブラハムと同じ精神を持ち、同じわざをすることにあらわされる霊的関係がないならば、彼らは、アブラハムの子ではなかった。

この原則は、長い間キリスト教会を騒がせた問題、すなわち使徒の継承という問題に同じように重大な関係がある。 アブラハムの子孫ということは、名や血統によらず、品性が似ていることで証明された。同じように使徒の継承は、教会の権威を引き継ぐことにあるのではなくて、霊的な関係にあるのである。使徒たちの精神、彼らが教えた信念と真理の教えとを原動力とする生活―これが使徒の継承の真の証拠である。これが人を福音の最初の教師たちの後継者とならせるのである。」(各時代の希望中巻256, 257)


月曜日 5月19日

2. 自分たちがそうだと自慢していた者ではない

a. ユダヤ人は生まれで言えばアブラハムの子孫でしたが、実際には、キリストを拒んだときにだれの子となりましたか(ヨハネによる福音書 8:41–44)。

「イエスは、ユダヤ人がアブラハムの子であることを否定された。『あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っている』とイエスは言われた(ヨハネ8:41)。彼らは嘲笑して、『わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である』と答えた(ヨハネ8:41)。

このことばは、イエスの生れについての事情をそれとなくさしていて、イエスを信じ始めた人たちのいる前でキリストに打撃を与えるつもりで言われたのであった。イエスは、この卑劣なあてこすりに注意を払わないで、『神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ』と言われた(ヨハネ8:42)。

彼らのわざは、嘘つきであり殺人者であるサタンとの関係を証拠だてた。そこでイエスは、こう言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。・・・・・・わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない」(ヨハネ8:44, 45)。イエスが真理を語られたということ、しかも確信をもって語られたということが、彼がユダヤ人の指導者たちに受け入れられなかった理由であった。自分自身を義人とするこれらの人々を怒らせたのは真理であった。真理は誤謬の欺瞞性をばくろした。真理は、彼らの教えと慣習とを非難したので、歓迎されなかった。彼らは自分たちが誤っていたということをけんそんに告白するよりは、むしろ真理に対して目をつぶっていたかった。彼らは真理を好まなかった。たとえ真理であっても、彼らはそれを望まなかった。」(各時代の希望中巻257, 258)

b. わたしたちをアブラハムの子とするのは、何ですか。またどのようにユダヤ人の指導者たちは、自分たちが真のアブラハムの子ではないことを表しましたか(ガラテヤ人への手紙 3:6–9; ヨハネによる福音書 8:40)。

「『あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。』」(ローマ8:15)。奴隷の精神は、律法的な宗教に従って生きようとすることによって、すなわち自分自身の力で律法の要求を満たそうと奮闘することを通して生じる。わたしたちにとって、アブラハムの契約の下に来るときにのみ、希望がある。それはキリスト・イエスを信じる信仰による恵みの契約である。アブラハムに説かれた福音、それによって彼が希望を持った福音こそ、今日はわたしたちに説かれた同じ福音であり、それを通してわたしたちは希望を持つのである。アブラハムはイエスを見上げた。このお方はまたわたしたちの信仰の創始者であり、完成者であられる。」(ユース・インストラクター1892年9月22日)


火曜日 5月20日

3. キリストのご品性

a. このお方の汚されていないご品性に関して、イエスの敵は、どの質問に答えることができませんでしたか(ヨハネによる福音書 8:46(上句))。

「地上におけるそのご生涯において、キリストは完全なご品性を発達させられた。人のかたちのうちにこの世に来られることにおいて、律法の支配下に入られることにおいて、人の病、悲しみ、罪を負われることを人に表すことにおいて、このお方は罪人になられたのではなかった。パリサイ人たちの前で、このお方は、『あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか』と言うことがおできになった。一つとしてこのお方には罪のしみがなかった。世の前にしみのない神の小羊であられた。」(神の息子むすめたち25)

「イエスは、天の目の前で、他世界の目の前で、罪深い人々の目の前で、律法を実行された。イエスは、天使たちと人々と悪鬼たちの前で、「わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしている」と語られたが、だれもこれに挑戦するものはなかった。もしこのことばがほかの人の口から語られたのだったら、冒涜とみなされたであろう(ヨハネ8:29)。」(各時代の希望中巻258)

b. 人の子としてイエスによって語られたことを除いて、聖書はキリストのご品性について、何と宣言していますか(へブル人への手紙 4:15; ペテロの第一の手紙 1:18, 19)。

「キリストをメシヤとして信じる人の信仰は、目に見える証拠に基づくべきではなかった。また彼らはこのお方の個人的に魅力のゆえにではなく、このお方の中に見出す品性の卓越さによって、すなわちかつて他の人のうちには決して見いだされたことも、見出し得ることもない品性の卓越さのゆえに信じるのであった。」 (SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]7巻904)

c. イエスの生活は、どのようにわたしたちの心に触れますか(ピリピ人への手紙 2:6–8)。

「わたしたちの模範者は、厳しい自己否定と自己犠牲の謙遜な道を、わたしたちのために、わたしたちを救うためにたどられたのではなかったか。このお方はわたしたちを救うご自分の働きにおいて、困難に直面し、失望を経験し、非難と苦悩をこうむられた。そしてわたしたちは栄光の王が導かれる道に従うことを拒むのであろうか。わたしたちは自分たちの贖い主の苦しみを覚えるときに、自分自身のために勝利する働きにある困難と試練につぶやくのであろうか。」 (教会への証 3巻371)


水曜日 5月21日

4. キリストに従う者の品性

a. すべて真にキリストに従う者の目標は何ですか(ペテロの第一の手紙 1:13–16)。

「わたしたちの働きは、自分の行動の領域において、キリストが地上におけるご自分のご生涯においてご品性のすべての局面で到達された完全を得ようと奮闘することである。」(彼を知るために130)

b. この目標に、わたしたちはどのように到達できますか(へブル人への手紙 12:1–4; ガラテヤ人への手紙 5:6(下句); ピリピ人への手紙 3:12–15; 4:13)。

「わたしたちは主なる救い主イエス・キリスト、わたしたちの偉大な教師によって具体的に述べられた完全に、どのように到達できるであろうか。このお方のご要求に応じ、これほど高く掲げられた標準に到達することができるであろうか。わたしたちはできる。さもなければ、キリストがわたしたちにそうするようにと課されはしなかったであろう。このお方がわたしたちの義であられる。このお方の人性において、このお方はわたしたちの前を行かれ、わたしたちのために品性の完全さを実現して下さった。わたしたちは、愛によって働き、魂をきよめるこのお方を信じる信仰を持たなければならない。品性の完全は、キリストがわたしたちにとって何であられるかに基づいている。もしわたしたちが自分の救い主の功績に絶えず依存し、このお方の御足の跡に従うならば、このお方のように純粋で汚れのない同じ姿になるのである。」(同上)

c. わたしたちは実際に神のみ前に、どのように純粋で傷のない者になることができますか(ローマ人への手紙 5:18–20; へブル人への手紙 10:14)。

「キリストは悔い改めた者だけ、すなわち、まずご自分が悔い改めさせた者だけをお許しになるのである。」(セレクテッド・メッセージ1巻393, 394)

「罪人はカルバリーの方向をいつも見ていなければならない。そして幼子のような単純な信仰をもって、キリストの義を受け入れ、その憐れみを信じて、このお方の義に安んじていなければならない。…

これは何という愛であろう―なんというすばらしい、計り知れない愛―であろう。わたしたちがまだ罪人であった時に、わたしたちのためにキリストが死ぬように導いたとは!律法の強い要求を理解しながら、はるかにそれを越えてなすキリストの恵みを理解しないことは、魂にとって何という損失であろう!」(同上384)


木曜日 5月22日

5. わたしたちの品性がこのお方のようになる

a. わたしたちはどのように自分の召しと選びを確かなものにすべきですか(ペテロの第二の手紙 1:4–11; ヨハネの黙示録 19:8)。

「神は、アダムに要求されこと、すなわち、完全な品性、傷のない義、このお方の目からご覧になって不足のないことを、いま要求なさる。神はわたしたちが、ご自分の律法が要求するすべてのものをわたしたちがご自分に捧げるために助けて下さる。わたしたちはキリストの義を日常の習慣に持ち込む信仰がなければ、これをなすことはできない。」(セレクテッド・メッセージ2巻381)

「サタンが支配しているかぎり、われわれは自我を静めて、絶えずつきまとう罪にうち勝たねばならない。生きているかぎり、留まる場所もなければ、完全にやり遂げたと言えるところもない。きよめは生涯の服従から生じるものである。」(患難から栄光へ下巻264)

「わたしたちはこのお方を信じることを通して、神性にあずかり、それによって世にある欲のために滅びることをまぬかれる者となることが、わたしたちの特権であることを悟らなければならない。そのとき、わたしたちはあらゆる罪から清められる。罪の傾向を一つとして残しておく必要はない。…

神性にあずかるにつれ、悪への遺伝的また後天的傾向は品性から切り離され、わたしたちは善のための生きた力とされる。神なる教師からつねに学び、日ごとにこのお方の性質にあずかりながら、サタンの誘惑に勝利することにおいて神と協力するのである。神が働かれ、人も働く。こうしてキリストが神と一つであられるように、人がキリストと一つになれるためである。…

わたしたちに勝利する力を与えて下さるのは神である。このお方のみ声を聞いて、このお方の戒めに従う人々は義なる品性を形成することができるようにされる。」 (SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]7巻943)


金曜日 5月23日

個人的な復習問題

1. パリサイ人は、なぜ自分たちの血縁に基づいては、永遠の命をわがものと主張できなかったのですか。また今日なぜだれも、救いのしるしとして家系やDNAに信頼することができないのですか。

2. 真のアブラハムの子らの特徴を説明しなさい。

3. ご自分のご品性に関して、イエスは何と宣言することがおできになりましたか。

4. すべてのクリスチャンの前に、どの目標が置かれていますか。

5. わたしたちはどのようにして神のみ前に完全で傷のないものとして見いだされることができますか。

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