日曜日
6月15日
1. ベタニヤの家族
a. ベタニヤの街にイエスには、どの弟子がいましたか(ヨハネによる福音書 11:5)。
「〔キリスト〕の心は、ベタニヤの家族に対して強い愛情のきずなで結ばれていた。そしてこの家族のひとりのために、キリストの最もふしぎなみわざがなされたのであった。
イエスはたびたびラザロの家でくつろがれた。救い主にはご自分の家庭がなかった。主は、友人や弟子たちのもてなしを受けられたが、それでもしばしば疲れて人とのまじわりがほしくなられると、怒っているパリサイ人たちの疑いやねたみからのがれて、このなごやかな家族のところへおいでになることをよろこばれた。ここにイエスは、心からの歓迎と、純粋できよい友情をみいだされた。イエスは、ここでは、ご自分のことばが理解され心にとめられることを知っておられたので、率直に、何の遠慮もなくお話になることができた。」(各時代の希望中巻334, 335)
b. どのような種類の家に、神はご自分の最良の祝福と共にご臨在なさいますか( 箴言 3:33(下句))。
「救い主は、静かな家庭と、興味をもってご自分の話を聞いてくれる人たちをよろこばれた。主は人間的なやさしさ、礼儀、愛情を熱望された。主がいつも与えようとしておられる天の教えを受け入れた人たちは非常にめぐまれた。」(同上335)
月曜日
6月16日
2. ラザロが病気になる
a. ラザロの姉妹たちは、自分の兄弟が深刻な病気にかかったとき、どのような行動をとりましたか。また彼らの受けた応答は何でしたか(ヨハネによる福音書 11:1–4)。
「ラザロが急に病気になったので、彼の姉妹たちは救い主に使いをやって、『主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています』と言わせた(ヨハネ11:3)。彼女たちは、兄弟を襲った病気の激しさを見たが、キリストがどんな病気でも治すことがおできになることを知っていた。彼女たちはキリストが困りきっている自分たちに同情してくださると信じた。そこで、キリストにすぐおいでくださるようにというさし迫った要求をしないで、『あなたが愛しておられる者が病気をしています』という信頼に満ちたことばを申し送っただけであった(ヨハネ11:3)。姉妹たちは、キリストがすぐに伝言に応じて、ベタニヤにお着きになったらすぐ自分たちのところにきてくださるものと思っていた。
姉妹たちは、イエスからのことばを熱心に待った。兄弟に生気があるかぎり、彼女たちは祈りながらイエスのおいでを待った。しかし使いの者は、イエスをお連れしないで帰ってきた。それでも彼が、『この病気は死ぬほどのものではない』とのイエスのみことばを伝えたので、姉妹たちは、ラザロが生きるという望みをすてなかった(ヨハネ11:4)。彼女たちは、ほとんど意識不明の病人にやさしく望みと励ましのことばを語ろうと努めた。」(各時代の希望中巻336, 338)
b. 翌数日にわたるキリストの言葉と行動を述べなさい(ヨハネによる福音書 11:5–8)。
「二日の間、キリストは、その伝言を心の中から忘れておられるようにみえた。キリストがラザロのことを口にされなかったからである。弟子たちは、イエスの先駆者であるバプテスマのヨハネのことを思った。ふしぎな奇跡を行う力をもっておられるイエスが、どうしてヨハネを獄の中で衰弱して非道な死に方をするがままにしておかれたのだろうと、彼らはふしぎに思ったのだった。そのような力を持っておられるのに、なぜキリストは、ヨハネの生命を救われなかったのだろう。この質問はパリサイ人たちからもよくたずねられた。パリサイ人たちは、ご自分が神のみ子であるというキリストの主張に対して、答えることのできない議論としてこの質問を出した。救い主は、弟子たちに、試練と損失と迫害について警告しておられた。主は試練のうちに彼らを棄てられるのだろうか。自分たちはキリストの使命をまちがえたのではないだろうかと疑う者たちもいた。そしてみんなが深く思い悩んだ。....
弟子たちは、もしイエスがユダヤに行かれるのだったのなら、どうして二日間待たれたのだろうとふしぎに思った。しかしいま彼らの心を占めているのは、キリストと彼ら自身についての心配であった。彼らは主がたどろうとしておられる道に危険しか見ることができなかった。」(同上339)
火曜日
6月17日
3. 失望が希望に変わる
a. キリストがいかにラザロの病気をかこむ出来事の複雑な場面を扱われたかということから、わたしたちはどのような時間を越えたメッセージを集めることができますか(ヨハネによる福音書 11:9, 10)。
「キリストと共に働く共労者となることができたはずでありながら、使命者と彼らのメッセージを拒絶してきた人々は、彼らの方角を失う。彼らは闇の中を歩み、何につまずくかを知らない。そのような人は終りの時代の惑わしにすぐに欺かれる。彼らの思いは重要でない関心事でいっぱいになり、キリストと共にくびきを負い、神と共に働く共労者になる祝福された機会を失う。」(クリスチャン教育の基礎471)
b. イエスはご自分の弟子たちにどのような驚くべき啓示を与えようとしておられましたか。それでありながら、彼らはこのお方の言葉をどのように解釈しましたか(ヨハネによる福音書 11:11, 12)。
「「そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、『わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く』『わたしたちの友ラザロが眠っている』。何という感動させられることばだろう。何という同情に満ちたことばだろう。弟子たちは、エルサレムへ行く事によって主が招こうとしておられる危険に心がうばわれて、ベタニヤの遺族のことをほとんど忘れていた。しかしキリストはそうではなかった。弟子たちは心を責められた。彼らは、キリストがもっとすばやく伝言に応じられなかったので、失望していた。彼らは、キリストがラザロとその姉妹たちにやさしい愛情を持っておられると思っていたのに、実際はそうでなかったのだ、そうでなければ主は使いの者といっしょに急いで行かれたはずだと、考えたくなっていた。しかし、『わたしたちの友ラザロが眠っている』ということばは、彼らの心のうちに正しい感情を呼びさました。キリストは悲しんでいる友人たちを忘れてはおられなかったのだと、彼らは確信した。」(各時代の希望中巻340)
c. キリストの言葉が実際には何を意味していたのかを説明しなさい(ヨハネによる福音書 11:13, 14)。
「キリストは、信じる子らにとって死は眠りであると言っておられる。彼らの生命はキリストとともに神のうちにかくれているのであって、最後のラッパが鳴りわたるときまで、死ぬ者はキリストのうちに眠るのである。」(同上341)
水曜日
6月18日
4. 待って、待って、待ち続ける…
a. なぜイエスはラザロが死んだことを知った後でさえ、ベタニヤから遠ざかっておられたのですか(ヨハネによる福音書 11:15)。
「弟子たちは、キリストが、『ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを…喜ぶ』と言われたことばに驚いた。救い主は、悲しんでいる友人の家庭をわざと避けられたのだろうか。マリヤとマルタと死にかけているラザロがうちすてられたようにみえた。だが彼らはひとりぽっちではなかった。キリストはすべての光景をごらんになっていて、ラザロの死後、あとに残された姉妹たちはキリストの恵みによって支えられた。イエスは、彼女たちの兄弟が強敵である死と戦っているとき、彼女たちの引き裂かれた心の悲しみを目に見ておられた。主は、『ラザロは死んだのだ』と弟子たちに言われたとき、心に激しい苦痛を感じられた。しかしキリストは、ベタニヤの愛する者たちだけのことを考えておられなかった。主は弟子たちを訓練することを考えられねばならなかった。天父の恵みがすべての人をおおうことができるように、彼らは世に対して天父を代表する者となるのであった。彼らのために、主は、ラザロが死ぬことをおゆるしになった。もし主がラザロを病気から健康へ回復されたら、イエスの神としての性格についての最も絶対的な証拠であるこの奇跡は行われなかったのである。」(各時代の希望中巻341, 342)
b. 偉大な癒し主が、ご自分の友ラザロが非常に病み、実際に死ぬままにされた方法から、わたしたちは何を悟るべきですか(コリント人への第一の手紙 15:17–19; 詩篇 18:28)。
「〔キリストの〕働きは病気に対するその御力を表すことにとどまらなかった。このお方は癒しの働きのたびに、ご自分の愛と慈愛という神聖な諸原則を心の中に植えつける機会となさった。」(健康についての勧告249)
「もしキリストが病室におられたら、サタンはラザロに権力をふるうことができないので、ラザロは死ななかったであろう。生命を与えるおかたであるイエスのおられるところでは、死は、ラザロをめがけて矢を放つことができなかったであろう。そこでキリストは離れておられた。主は敵に権力をふるわせておかれたが、それはご自分が敵を征服して撃退されるためであった。キリストは、ラザロが死の支配下にはいることをお許しになった。悲しむ姉妹たちは、兄弟が墓に横たえられるのを見た。彼女たちが兄弟の死顔を見るとき、あがない主に対する彼女たちの信仰が激しく試みられることを主はご存知であった。しかし主は、姉妹たちの信仰が、いま経験している戦いを通して、ずっと大きな力となって輝き出ることをご存知だった。主は、彼女たちが耐えた苦痛のひとつひとつをご自分も経験された。主は手間どられたとはいっても、彼らを愛しておられることに変りはなかった。主は、彼女たちのために、ラザロのために、ご自身のために、また弟子たちのために、勝利が獲得されることをご存知だった。」(各時代の希望中巻342, 343)
木曜日
6月19日
5. いつも期待通りとは限らない…
a. 神の忠実な僕たちの死に関して、それがどのように起ころうと、いつも何を考えなければなりませんか(詩篇 116:15)。例をあげなさい。
「エリシャには火の車に乗って、彼の師に従うことは許されなかった。主は彼が長い病の床に伏すことをお許しになった。長時間にわたる人間的弱さと苦しみの中で、彼の信仰はしっかりと神の約束を把握し、彼の回りに慰めと平和をもたらす天使たちを常に眺めた。....神の摂理と神の慈悲深い寛容とが十分に理解されるにつれて、その信仰は神に対する永続的信頼となっていった。そして、死が迫ってきたとき、彼にはその働きを休む用意ができていたのである。」(国と指導者上巻230, 231)
b. ベタニヤでは、イエスの到着前に、どのような出来事がありましたか。またこのお方が来られたとき、他にだれがいましたか(ヨハネによる福音書 11:17–19)。
「ラザロのところに行くのを遅らせることには、まだ主を受け入れていない人々に対するキリストのあわれみの目的があった。ラザロを死人の中からよみがえらせることによって、頑固で不信な民に、ご自分がほんとうに『よみがえりであり、命である』という別な証拠をお与えになるために、キリストは出かけるのを延ばされたのであった(ヨハネ11:25)。主は、イスラエルの家の迷えるあわれな羊である民について、望みをまったく放棄することを好まれなかった。彼らがかたくなであるために、イエスの心は痛んでいた。あわれみ深い主は、ご自分が救い主であって、生命と不死を明らかにすることのできるただ一人のおかたであるという証拠をもう一度彼らに与えようと意図された。これは祭司たちが誤解することのできない証拠となるのであった。これが、イエスがベタニヤに行くのを遅くされた理由であった。この最高の奇跡であるラザロのよみがえりは、キリストの働きと、神性についてのキリストの主張に、神の印をおすものであった。」(各時代の希望中巻343)
金曜日
6月20日
個人的な復習問題
1. ラザロの家族にはだれがいましたか。
2. なぜイエスはご自分の友の要望にすぐに応じられなかったのですか。
3. キリストの態度に対する弟子たちの反応は、どのようなものでしたか。
4. キリストを信じる信徒たちは、死をどのように見なすべきですか。
5. キリストはどのような目的のために、ラザロが死ぬままにされましたか。