日曜日
6月8日
1. 盗人と羊飼い
a. イエスは盗人と羊飼いをどのように区別されましたか。そしてこのお方はどのような霊的な教訓を例証されましたか( ヨハネによる福音書 10:1, 2)。
「キリストは、これらの預言を[イザヤ書40:9-11、詩篇23:1、エゼキエル書34:23,16,25,28]ご自分にあてはめ、ご自身の性格とイスラエルの指導者たちの性格との相違をお示しになった。パリサイ人たちは、キリストの力についてあえてあかしをたてたという理由で、ひとりの人間をかこいの中から追い出したばかりであった。彼らはまことの羊飼イエスがご自分のもとにひきよせようとしておられた魂を追い出した。このことによって、彼らは、自分たちにまかされている働きについて無知であることと、羊の群れの牧者として信任される価値のないことをばくろした。イエスは、いま彼らとまことの羊飼との相違を彼らの目の前に示し、ご自身を主の群れのまことの番人としてさし示された。」(各時代の希望中巻273)
「キリストはわたしたちが無力で依存するものであるから、わたしたちを愛される。」(説教と講和1巻248)
b. 羊とその羊飼いの間には、どの関係が存在しますか(ヨハネによる福音書 10:3, 4)。知らない人の前で羊は何をしますか(ヨハネによる福音書 10:5)。
月曜日
6月9日
2. 囲いの門
a. イエスはパリサイ人たちに対して、どのようにご自分が対照的であることを明らかにされましたか(ヨハネによる福音書 10:7–10)。
「キリストは神の囲いの門である。大昔から、神の子らはみなこの門を通ってはいって行った。イエスは、型に示され、象徴に予表され、預言者たちの啓示にあらわされ、弟子たちに与えられた教訓を通してあらわされているが、そのイエスのうちに、また人の子らのためになされた奇跡のうちに、彼らは『世の罪を取り除く神の小羊』を見(ヨハネ1:29)、また、イエスを通して、主の恵みという囲いの中につれてこられた。多くの人々が現れて、世の信仰の対象としてほかのものを示した。人々は、儀式や制度を作り出し、それによって義とされ、神とやわらいで、神の囲いにはいることを望んでいる。しかしただ一つの門は、キリストである。キリストの代りになるような何かを置いたり、何かほかの道から囲いにはいろうと試みた者は、みな盗人であり、強盗である。
パリサイ人は門からはいらなかった。彼らは、キリスト以外の方法で、囲いによじのぼってはいったのであって、真の羊飼の働きを果していなかった。祭司たちや役人たち、律法学者たちやパリサイ人たちは、生きた牧草地をだめにし、生命の水のみなもとをけがした。霊感のみことばは、こうした偽りの羊飼をありのままにこうえがいている、『あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、....彼らを手荒く、きびしく治めている』(エゼキエル書34:4)。」(各時代の希望中巻274, 275)
b. 真の羊飼いは雇われた人と、どのように違いますか(ヨハネによる福音書 10:11–13)。
「単に説教ができるだけでなく、信心の奥義の経験的な知識を持つ人々、民の緊急の必要に応じることができる人、すなわちイエスの僕としての自分の立場の重要性を自覚し、イエスがどのように担うべきかを教えて下さった十字架を注意深く取り上げる人が欠乏している。
牧師が自分の民と密接に交わり、こうして人間の性質のさまざまな局面になじむことは非常に重要である。彼は、自分の教えを聴衆の知性にあわせることができるように、思いの働きを研究すべきである。こうして彼は人間の性質と必要を厳密に研究する人々だけが持つことのできる壮大な愛を学ぶのである。」(福音宣伝者191)
火曜日
6月10日
3. 典型的な良い羊飼い
a. イエスは、他にどのような良い羊飼いの特徴をあらわしましたか(ヨハネによる福音書 10:14, 15)。
「この世の羊飼が自分の羊を知っているように、天の羊飼イエスは、世界じゅうにちらばっているご自分の羊の群れを知っておられる。『あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる』。イエスは『わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』。『わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ』と言われる(エゼキエル書34:31、イザヤ書43:1、49:16)。
イエスは、われわれを個人的に知っておられ、われわれの弱さを感じて心を動かされる。イエスはわれわれの名前をみな知っておられる。イエスはわれわれの住んでいる家を、またその家に住んでいるひとりびとりの名前を知っておられる。イエスは、時々、ご自分のしもべたちに、どこそこの町の何という通りのこれこれの家に行ってわたしの羊の一匹をさがしなさいと命じられた。
ひとりびとりは、あたかも救い主がその者のためだけに死なれたかのように、よくイエスに知られている。ひとりびとりの悲嘆はイエスの心を動かす。助けを求める叫びはイエスの耳に達する。イエスはすべての人をみもとに引きよせるためにおいでになった。イエスは彼らに、『わたしに従ってきなさい』とお命じになる。するとみたまが彼らの心に働いて、彼らがみもとにくるように引きよせる。多くの者は引きよせられるのをこばむ。イエスはそれがだれであるかをご存知である。イエスはまた、ご自分の呼び声をよろこんできいて、羊飼であられるイエスの守りに身をゆだねようとする者をご存知である。『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る』とイエスは言われる(ヨハネ10:27)。イエスは、この地上にほかにだれもいないかのように、ひとりびとりを気づかわれる。」(各時代の希望中巻276, 278)
b. 他にどの羊に、イエスは心づかいを表されましたか(ヨハネによる福音書 10:16)。
「イエスは、にせの羊飼にまちがった道へ連れて行かれた全地の魂に思いをよせられた。イエスがご自分の牧場の羊として集めようと熱望された人たちが、狼の間にちりぢりになっていた。そこでイエスは、『わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう』と言われた(ヨハネ10:16)。」(同上281)
「神はすべての教会に宝石を持っておられる。そしてわたしたちのなすべきことは、公言する宗教界を非難で一掃することではなく、かえって謙遜と愛のうちにイエスのうちにあるがままの真理をことごとく提示することである。人々が敬神と献身を見ることができるようにしよう。品性にキリストのかたちを見ることができるようにし、彼らが真理にひきつけられるようにしよう。」(SDAバイブル・コメンタリ[E・G・ホワイト・コメント]4巻1184)
水曜日
6月11日
4. 神聖な力
a. イエスはどの神聖な力を持っておられると宣言されましたか(ヨハネによる福音書 10:17, 18)。
「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネ10:17)。すなわち、父はあなたを深く愛されたので、あなたをあがなうために自分の生命をささげたわたしをますます愛してくださるのである。わたしの生命をささげることによって、あなたの負債、あなたの罪とがを引き受けることによって、わたしがあなたの身代わりまた保証となったために、わたしは父から愛されているのである。
『命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある』(ヨハネ10:17,18)。イエスは、人類家族の一員として死ぬべき身であられたが、一方また、神として世の人々のための生命の泉であられた。イエスは死の前進をとどめ、その主権の下にはいることをこばむこともおできになった。だが主は、生命と不死を明るみに出すために、自発的にご自分の生命をお捨てになった。イエスは、人類が永遠に滅びることがないように、ご自分が世の罪を負い、罪ののろいに耐え、ご自分の生命をいけにえとしてささげられた。『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。…彼はわれわれのとがのめに傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた』(イザヤ書53:4-6)。」(各時代の希望中巻281, 282)
b. 民がキリストに従うように導くのは何ですか(ヨハネによる福音書 10:27; ヨハネの第一の手紙 4:10, 19)。
「弟子たちがキリストに従うのは、罰を恐れるとか、永遠の報いを望むからではない。彼らは、ベツレヘムの馬ぶねからカルバリーの十字架にいたるまで、この地上における旅路を通じてあらわされた救い主の比類のない愛を見る。そのキリストのお姿が彼らをひきつけ、魂をやわらげ、征服するのである。イエスを仰ぎ見る者の心のうちに愛がめざめる。彼らはみ声を聞き、イエスに従うのである。」(各時代の希望中巻279)
「キリストの地上の生涯、われわれのための犠牲、われわれの仲保者としての天における働き、そして、主を愛する者のために備えておられる住居のことを考えて、われわれは、ただ、キリストの愛は何と高く、何と深いことだろうと叫ぶことしかできない。」(患難から栄光へ下巻13, 14)
木曜日
6月12日
5. 救いの確証
a. イエスはご自分の羊にどの保証を与えておられますか(ヨハネによる福音書 10:28, 29)。
「いまイエスは、神のみもとにのぼって、神と共に宇宙の王座についておられるが、その慈悲深いご性質をすこしも失ってはおられない。今日も同じように、やさしい同情に満ちたイエスの心は、人類のすべての苦悩に向かって開かれている。刺されたみ手は、世にあるご自分の民をもっと豊かに祝福するためにきょうもさし出されている。『だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない』(ヨハネ10:28)。キリストに献身した魂は、キリストの御目には、全世界よりもとうといのである。救い主は、ひとりがみ国に救われるためであっても、カルバリーの苦悩を経験されたであろう。主は、ご自分がそのために死なれた魂を決してお捨てにならない。イエスに従う者たちが自分からイエスを離れようとしない限り、イエスは、彼らを固くひきとめておられる。」(各時代の希望中巻280)
b. わたしたちの霊的な安全と救いの保証は、どこに基づいていますか(ローマ人への手紙 8:31–39)。
「天の法廷で、キリストは教会のために弁護しておられる。すなわち、キリストが血のあがないの値を支払われた人々のために弁護しておられるのである。どんなに世紀や時代を重ねても、キリストのあがないの犠牲は効力を減じない。生も死も、高いものも深いものも、キリスト・イエスにおける神の愛からわれわれを引き離すことはできない。それはわれわれがしっかりとキリストをつかんでいるからではなく、キリストがわれわれをしっかりつかんでいるからである。もし救いがわれわれ自身の努力にかかっているとすれば、われわれは救われることができない。しかし救いは、すべての約束を支持しておられる方にかかっているのである。キリストをとらえるわれわれの力は弱いように見えるかもしれないが、キリストの愛は兄の愛のようで、主と結ばれているかぎり、だれも主のみ手からわれわれを引き離すことはできない。」(患難から栄光へ下巻256)
金曜日
6月13日
個人的な復習問題
1. 羊飼いと盗人のふるまいの違いを説明しなさい。
2. イエスは他にどのような象徴を通して、ご自身を表されましたか。
3. 真の羊飼いは、自分の羊たちをどのように扱いますか。
4. 羊はなぜ羊飼いにはついていきますが、知らない人にはついて行きませんか。
5. わたしたちはどのように救いの確証を得るべきか、説明しなさい。